手向けの化粧ず

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 鍵を開けて事務所に入ると、人けはなく、しんとしていた。  明かりを点け、荷物を自分のデスクに置く。パソコンのスイッチを入れた後、事務所の真ん中にある大きなディスプレーの電源を入れた。  しばらくすると、画面に「呼び出し中」の文字が表示される。更に数分待つと、画面に風景写真が映り、スピーカーから女性の声がした。 「傳馬さん、お疲れ様」 「お疲れ様です。社長」  画面の相手は、「上司」の「千尋さん」だ。もっとも、それは彼女の本名ではないし、実際に会ったこともないので顔も知らなかった。 「最近忙しそうだったけど、今日は定時で上がれたのね。……今回のクライアントは、どんな方?」 「ご説明します」  千尋さんの最初の言葉は受け流して、私は先ほどメモを取った手帳を広げ、ざっと説明を始めた。  ここは彼女の経営する「草蔭社」の事務所。何の会社かと言うと、いわゆる「評伝」――新聞などに載っている、故人の生前の業績や人となりを紹介する文章――の執筆を請け負う会社だ。  評伝記事は、基本的にはそこの新聞社なり出版社なりの雇っている記者が書くものだが、ごくまれに、自社の記者では難しい場合などがある。この会社では、そういった、取材や調査をするのが難しい人物の評伝記事の執筆を請け負っている。  その筋では定評のある会社だが、会社とは言っても、社員は、社長の「千尋さん」と、そのアシスタントの私だけ。しかも、私は本業の傍らやっているアルバイトで、千尋さんも、他に本業を持ちながら、ほとんど趣味でやっている。  私の仕事は、クライアントからの依頼の受け付けや、基本的な事項の聞き取り、比較的入手しやすい資料の手配といった雑用。執筆は全て千尋さんが一人でやっている。  私の説明を聞き終わると、千尋さんは、事前に調べることや、最初の面談で聞くべき内容などを手短に指示して通信を切った。私は小さく溜め息を吐いてから、準備に取りかかった。
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