雅 ⑥

4/4
175人が本棚に入れています
本棚に追加
/58ページ
千夏が台所にあった日本酒とお猪口を二つ持ってきて、こたつの上に載せた。 テレビは年末に向けて特番が増える頃で、いつもとは違うバライティ番組をやっている。 テレビ画面もいつになく華やかで、多勢の声が聞こえて賑やかだ。 「もう今年も終わるね」 千夏はそんなことを言いながらこたつに深く入り、日本酒を飲んだ。 しばらく二人でテレビを見ながら、ぽつりぽつりとお正月の予定や来年の話をする。 壁に掛かった部屋の時計を見ると、もうすぐ夜の九時になろうとしていた。 「こたつって、一回入ると出られなくなるのが困るな」 僕はすっかり温まった体を動かせないまま言った。 猫はこたつから出て、僕のひざの上に乗ったまま目を閉じている。 「雅、明日は来れる?」 千夏が聞いた。 「明日?うん、来れると思う」 「明後日は?」 「明後日か・・うん、多分大丈夫」 僕が今日はそろそろ帰らないと、と言いかけた時だった。 「帰らないで」 千夏がこたつに載ったお猪口を見つめたまま、小さな声でそう言った。 長い睫毛を伏せた目元が、揺れるように潤んでいる。 僕は何も言えなくなって、彼女を見つめた。 テレビの賑やかな音が響く中、今いる場所がこの世とは離れた、別の世界のような気がしてくる。 暗くなった外には何も無くて、空っぽだ。 誰もいない。 僕と千夏と、猫だけしかいない、静かな世界。 「帰らないで、雅。ここにいて」 彼女はそう言うと、そばに来て僕の背中を抱きしめた。 今日僕たちがこうなるのは、なんとなく分かっていた。 二ヶ月間千夏に会えず、僕は日に日に彼女を思い出す時間が増えていくのを、自分の中ではっきりと感じるようになっていた。 会いたい。 千夏に会いたい。 疲れて帰ってきた日も、千夏とあれこれ話しながら夜を過ごしたい。 そしたら次の日もきっと頑張れるのに。 僕は二ヶ月間、仕事で遅くなった帰り道を歩きながら、何度もそう思った。 夕方ここに来て台所にいる千夏と目があった瞬間、きっと今夜僕たちの関係が変わるという予感があった。 シンクの前で振り返って、入って来た僕を見つめた千夏。 鍋から立ち込める湯気越しの視線に、千夏が思っていることが伝わってくる。 彼女も会えない間、ずっと僕を待っていてくれていた。 猫は相変わらず僕のひざの上で、目を閉じてくつろいでいる。 千夏はずっと僕の背中にしがみついたまま、動かない。 僕はなんだか可笑しくなって笑った。 「重たい、二人とも。肩とひざが重たい」 「雅が帰らないって言うまで、離さない」 千夏もそう言って笑う。 「わかった、帰らない。今夜はここにいる」 僕がそう言うと彼女はようやく僕の背中から離れ、寄り添うように隣に座った。 千夏の方を向いた僕のひざが動くので、猫が僕から離れようとしている。 去っていく猫に触れようとした千夏を、僕はしっかりつかまえた。 そっと彼女と唇を重ねる。 小さくて柔らかな唇に、日本酒の甘い香りがした。 華奢な背中に手を回すと、千夏は僕の胸にぴったりと収まるように寄りかかり、僕をゆっくり押し倒した。 二人ともラグの上に寝転ぶ形になり、くすくすと笑い合う。 千夏の揺れる瞳の中に、自分が映り込むのが見える。 僕の唇に、もう一度彼女の唇が触れた。 お互いが会わなかった時間を埋めるように、何度も何度も唇を重ね続ける。 その夜、僕は自分の家には帰らなかった。 今日はこの家の縁側に、誰もいない。 この時季は寒くて、とてもあの場所では過ごせないだろう。 庭も枯れ葉が目立って、寂しげな場所になっている季節だ。 僕たちは二人で作った温かな部屋の中で、冷え込む寒い寒い夜を過ごした。 あと少しで一年が終わる。 来年も再来年もその先も、ずっと僕は千夏の隣にいたい。 千夏も僕と同じ気持ちでいてくれる? 「帰らないで」 そう言ってくれた千夏の声が、僕の胸の中で鈴の音のようにいつまでも響いていた。
/58ページ

最初のコメントを投稿しよう!