千夏 ①

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夕方の六時頃に彼の実家に着いた。 門から家まで小さな道があり、歩いて行くと見渡せる立派な庭が広がっている。 つつじの植え込みには濃淡様々なピンク花が咲き、今が見頃のようだ。 その近くには紫陽花もあり、きっとつつじの花が落ちる頃にはこちらが咲き始めるのだろう。 日陰になっている場所には深い緑色の苔が広がっていた。 苔に沿って黒い羽のとんぼのような虫がひらひらと飛び交い、とても綺麗だ。 「・・広い庭だね」 あちこち視線を移しながら私がそう言うと、 「初めて来る人はみんなそう言うよ」 と彼は笑った。 家の近くまで歩くと小さな池があり、鯉の鮮やかな背中が見える。 私がゆらゆらと泳ぐ鯉を眺めている間、彼も一緒に私の隣で眺めた。 「じいちゃんがさ、大事にしてた鯉なんだ」 彼がぽつりと言った。 彼のおじいちゃんは私達が付き合い始めて半年程経った頃、亡くなった。 おじいちゃんっ子だった彼は、一時期落ち込んで元気がなかったのを思い出す。 大きな玄関の扉を開けると、彼は少し大きめの声で「ただいま」と家の中に向かって言った。 ぱたぱたとスリッパの音をさせながら、彼のお母さんが出て来る。 私の顔を見ると、嬉しそうな顔をして笑った。 「いらっしゃい。さあ、どうぞ入って」 にこにこして優しそうな人だ。 「お邪魔します」 緊張しながら私は、パンプスからスリッパに履き替える。 彼のお母さんはそんな私の足元を見守るように見つめていた。 ペディキュアを塗り直してきたことに内心で安堵を覚え、私たち三人は長い廊下を歩いた。 夕食時だった為か、近所の寿司屋で出前をとったようだ。 テーブルの上には、寿司桶に入った寿司とコップや箸が用意されている。 きちんと四人分が椅子に合わせて並べられ、すぐに食べられるようになっていた。 緊張のせいか、立っている足元がふわふわする。 リビングで改めて、彼のお父さんとお母さんと向き合った。 「初めまして。野上千夏です」 挨拶をして手土産を渡す。 穏やかで優しそうなご両親だ。 彼はお父さんにどことなく似ている。咳払いした時に出る声がそっくりだ。 「さ、どうぞ。座って」 彼のお母さんがそう言い、四人で席に座った。
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