千夏 ①

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席に座るとすぐ、小さなグラスにビールを勧められた。 「帰りは僕が送っていくから大丈夫」 ためらう私に彼がそう言うので、グラスに一杯だけ頂くことにした。 「今日はお仕事?」 彼のお母さんに尋ねられる。 私が休みだと答えると、そこからあれこれ質問が始まった。 どんな仕事をしているの? ご実家はどの辺りにあるの? ご両親は何されているの? 四人分の寿司桶が空になる頃には、私に聞きたいことは全部聞いたというように、話が一段落した雰囲気になった。 彼の家に来てから一時間程経とうとしていた。 「温かいお茶でも入れましょうか」 彼のお母さんが、大きな急須で丁寧にお茶を淹れてくれた。 客用らしき、同じ柄の湯呑みがたくさんある。 昔からある大きな家らしく、親戚や知人がよく集まるのだろう。 「ありがとうございます」 私は目の前に置かれた湯呑みを見つめた。 疲れで出そうになった溜め息を、温かいお茶で流し込む。 食卓から少し離れた場所に、大きなテレビが置いてある。 アナウンサーが無表情でニュースを淡々と読み上げ、どのニュースにも興味が沸かなかったが、お茶を飲みながらぼんやり眺めた。 「結婚したら、この家のリフォームも考えているし、住む場所の心配はしなくてもいいんじゃないかな」 ふいに彼のお父さんが言った。 ビールのせいか、少し顔が赤くなっている。 お酒にあまり強くないのか、視線も定まっていない表情のまま言葉を続けた。 「広さは充分にあるし、部屋も増やせると思う。子供部屋も作れるだろうし。築年数を考えるとそろそろ直したほうがいい所もたくさんあるし・・ほら、二階のベランダの塗装も、塗り直した方がいいんじゃないか?」 「そういえば、剥がれてきて目立つわね」 彼のお母さんがそう言った。 えっ?結婚したらここに住むの? 私は喉元まで出掛かった言葉を飲み込んだ。 彼のお父さんがあまりにもさらりと言い出した話題なので、何も言えなくなる。 同居なんて考えていなかった私は、もやもやとした気持ちが胸に広がるまま、彼の隣で黙ってお茶を飲み干した。 七時半頃、彼の両親に見送られて家を出る。 帰り際に彼のお母さんが、家の畑で採れたという野菜を袋に入れて私に差し出した。 「少し離れた所にね、うちの畑があるの。野菜は採れるからスーパーで買わなくてもいいのよ」 私はお礼を言って受け取ると、彼の車に乗り込んだ。
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