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夕食を終えた連絡をフロントにすると、仲居さんが来て手早く後片付けをしていった。
元通りになった部屋で二人ともしばらくテレビを見ていたが、十時頃になると「眠い」と千夏が言った。
「部屋分けよっか。向こうとこっちの部屋、襖で仕切れるから」
僕がそう言うと千夏も
「そうだね」
とうなずいた。
さすがに真横で布団を引いて寝るのはお互い気まずい。
僕は食事をした部屋に布団を持ってきて、床に敷いた。
部屋には夕食の温もりが残っているような空気が漂っている。
灯りを落として、僕はそっと目を閉じた。
ビールを飲んだしお腹もいっぱいだ。
明日は午前中ここでのんびりして、ゆっくり帰ろう。
そんなことを考えていると、すぐにでも眠れそうなくらいの睡魔が襲ってくる。
「雅」
意識が落ちそうになる間際に、千夏の声が聞こえた。
「千夏?どうしたの」
眠りそうな僕は目を閉じたまま動かず、小さな声で聞いた。
すぐそばに襖の向こうにいるはずの、千夏の気配を感じる。
いつも隣にいる、馴染みのある千夏の気配。
「今日はありがとう。一日中ずっと楽しかった。・・それとあの時、私の代わりに怒ってくれたの、ちょっと嬉しかったよ」
静かにそう言う千夏の声が聞こえる。
僕の額に、そっと優しく彼女の手のひらがのせられた。
少し冷たくて、柔らかな感触。
いつもの千夏と違う石鹸の匂いがする。
僕は自分の手をゆっくり動かして、額にある華奢で小さな手に重ねた。
目の上に心地良い重みを感じ、体中の力が抜ける。
夢なのか現実なのかよく分からないまま、僕の意識は深い眠りに引き込まれていく。
ぐっすり眠った僕は、スマホのアラームが鳴る前に目が覚めた。
見慣れぬ天井をしばらく見つめる。
窓のカーテンから漏れる光で、朝だと認識できた。
僕は布団から抜け出すと、小さく隣の襖をノックした。
返事がない。
静かに襖を開けると、千夏は戸のすぐ近くに布団を敷いて寝ていた。
子供みたいな顔で、すぅーっと寝息を立てて眠っている。
掛布団がめくれて足が見えていたので、そっと直しておいた。
僕は彼女を起こさないように静かに戸を閉めて、出窓の近くに行くと煙草に火をつけた。
出窓を半分開けると、朝の澄んだ空気が頬に触れる。
大きく息を吸うと眠気が完全に外に出ていくようだった。
今日も一日、晴れそうな天気だ。
五階にあるこの部屋から下を見下ろすと、外には駐車場がある。
ふと目をやると、昨日会った元彼のお母さんのグループが歩いているのが見えた。
数人の女性が賑やかに喋り立てている声が何となく聞こえる。
朝食を食べずにここを出るようだ。
今から別の場所に観光にでも行くのだろう。
千夏が眠っている間に、どっか行けばいい。
もう二度と会いませんように。
僕は煙草の煙を吐き出しながら、心の中で千夏が結婚しなくて本当に良かった、と思った。
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