千夏 ⑤

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マンションに着くと、入口で雅がインターフォンを鳴らして中に入れてもらう。 部屋に着いて雅が玄関の戸を開けると、すぐそこに小さな男の子が待っていた。 「パパ、みーくん、来たよ」 男の子はそう言うと、駆け足で部屋の中に入って行く。 私たちは中に入って挨拶を済ませると、雅が温泉のお土産と自分の働いている店のロールケーキを、結衣の旦那さんに渡した。 「珈琲でも淹れるか」 旦那さんが台所に立ち、カップやソーサーを用意し始めた。 雅はケーキを人数分に分けるため、ナイフを借りて切り分けている。 猫ちゃんはどこかな。 やや手持ち無沙汰になった私が辺りを見回すと、男の子がそばに来て私の手を引いた。 「こっち来て」 澄んだ目がくるくるとよく動き、元気で活発そうな子だ。 結衣より旦那さんに似ている気がした。 隣の部屋に連れて行かれると、入ってすぐそばの隅に三毛猫がうずくまっていた。 二人でしゃがんで猫を見つめる。 初対面の私たちは、何となく黙ったまま猫を撫でたりした。 「お姉ちゃん、昼間はお仕事なんでしょ?」 男の子が口を開く。 日中、猫が一人で留守番をするのを気にしているようだった。 「うん、仕事。でも、猫が外に出ないようにちゃんと戸締まりしておくし、家の中は安全だよ。だから大丈夫」 私がそう言っても、男の子はどこか不安気な顔のまま猫に触れている。 小さな手で何度も、頭から背中を優しく撫でていた。 「よそのおうちに行っちゃうんだね」 男の子は猫に話掛けた。 弱々しい寂しげな声に、私は胸が締め付けられる。 「時々うちに遊びにおいでよ。ここからそんなに遠くないし、雅もしょっちゅう来てるから一緒においで」 そう言うと男の子は少しためらうような顔をしたが、小さくうなずいた。 結衣の旦那さんに珈琲を淹れてもらい、四人でケーキを食べた。 男の子は小学校に行く持ち物を揃えている話をしたり、引っ越し先には自分の部屋が用意されている話などを楽しそうにしている。 一時間ほど経った頃、夕食の時間が近付いているので、そろそろ帰ろうと雅が言った。 結衣の旦那さんが動物用のキャリーケースを持ってくる。 猫を抱き上げてケースの入口近くに置いた。 そろそろと猫が行儀よくケースに収まると、男の子はお父さんにしがみついて、わっと泣き出した。 私は自分の目が潤むのを止められず、うつむいて瞬きする。 予想していたものの、別れを目の当たりにするのは辛い。 結衣の旦那さんが、男の子をなだめながらこちらを見てうなずいたので、私と雅は猫を連れてマンションを出た。 耳に男の子の泣き声が残るまま、私と雅はバスに揺られる。 バス停で降りてからも、なんとなく二人とも会話が少ないまま、お互いの家の近くまで歩いた。 「明日の夕方、また千夏のうちに寄るよ」 雅が別れ際にそう言い、私は「わかった」と返事をして猫を連れ、自分の家に向かう。 家に着くと私は玄関でキャリーケースを開け、しばらく猫が出てくるのを待っていた。 やがてゆっくりと猫は出てくる。 恐る恐る辺りを見回しながら、床の匂いを嗅ぎ始めた。 「これからよろしくね」 まだ戸惑いの表情を浮かべた猫の頭をそっと撫でる。 明日は仕事が休みなので、一緒に一日を過ごすつもりだ。 まずはごはんやトイレに慣れてもらうところから。大丈夫かな。 私も猫も、お互いやや緊張した面持ちで見つめ合った。
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