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千夏 ⑥
九月の半ばを過ぎると、急に朝晩は涼しく感じるようになってくる。
晴れた日に外に出ると、広々とした青空が高く感じる日が増えてきた。
今日は萌ちゃんの最後の出勤の日だ。
朝からいつも通り一緒に開店準備をして、いつも通り喋りながら仕事をこなす。
私は少しずつ湧き上がる寂しさをこらえて、いつも通り、を意識しながら一日を過ごした。
退勤時刻が近付き、萌ちゃんはスタッフみんなに挨拶をして周り始めた。
私は彼女と同じ時間に退勤して、二人で一緒に帰り道にあるイタリアンの店に行くことにした。
何度か一緒に来たことのある店だ。
悪阻は安定期前には治まってきて、萌ちゃんはいつも通り食べられるようになってきていた。
二人で幾つかメニューを頼み、シェアして食べる。
「見て見て、秋のスイーツフェアだって」
萌ちゃんはメニューを見てそう言い、最後にその中からデザートも頼んで食べた。
店に入ってから、一時間は経っていた。
テーブルの上にあったお皿は全て空っぽだ。
なんとなく二人とも、もう帰ろうと言い出さないまま、席に残る。
「萌ちゃん、これ。プレゼント」
私は包みをかばんから出して萌ちゃんに渡した。
温泉に行った時、職場のお土産とは別に萌ちゃん用のフェイスパックセットを買った。
渡しそびれていたお土産と、カフェイン抜きの珈琲セットが入っている。
「わー、ありがとう。嬉しい」
萌ちゃんはそっと受け取ると、たちまち目を潤ませてぽろぽろと泣き出した。
「寂しいよー・・私、こっち来てから知らない土地で心細かったけど、ちーちゃんがいてくれて、毎日仕事も楽しく行けてたから、本当に感謝してるんだよ。今までありがとう、ちーちゃん」
「私も。今までありがとう。萌ちゃんが来てくれてから、仕事行くの楽しかった。これから寂しいよ・・」
私も涙が止まらなくなって、二人とも席に座ったまま泣いた。
しばらくすると、隣の席の人たちが何となく落ち着かない雰囲気になっているのに気付いたので、私たちは会計を済ませて店を出る。
萌ちゃんは旦那さんが迎えに来てくれると言うので、私たちはバス停の所で別れた。
「また連絡する。引っ越すまでに店にも遊びに行くし」
「うん、来てね。萌ちゃん、体大事にして。無理しちゃ駄目だよ」
別れ際にそう言いあって、私はバスに乗り込んだ。
次の日から、萌ちゃんが来ない職場に私は寂しさを感じながら、朝から夕方までいつも通りの仕事をこなした。
やっぱり少し、一日が味気ないように感じる。
しばらく仕事に行く日はこんな気分が続くのだろう。
その日の夜、家に帰ってからお風呂上がりに顔の手入れをしていると、手元にあったスマホにメッセージが入った。
雅からだ。
『千夏、秋刀魚食べる?今日たくさん貰ったけど、うちじゃ食べきれない』
秋刀魚か。
そういえば、今年はまだ食べていない。
こんがり丸焼きにして大根おろしとポン酢で食べたら、美味しいだろうな。
『いいねー、秋刀魚。うちに古い七輪あるよ。庭で焼いて食べられるかな』
私はおばあちゃんが大事にしまっておいた七輪を思い出して、そう返信した。
明日は私も雅も仕事が休みだ。
お昼に二人で秋刀魚を焼いて食べようということになり、私は寝る前に長皿を探すため台所へ向かった。
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