千夏 ⑥

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バスに乗ってレンタルバイクの店まで行くと、雅はすぐに手続きをし始めた。 店の前に大型のバイクとヘルメットが二つ、用意される。 雅はエンジンを掛け、しばらく車体を温めていた。 「ゆっくり走るから。安全第一で」 彼はエンジンの音にかき消されないように、大きな声で私に言った。 ヘルメットを被り、後ろの席にまたがる。 雅の背中につかまると、七輪の煙の匂いが微かにした。 私の髪にも同じ匂いが染み付いている。 二人を乗せたバイクがゆっくり走り出し、徐々にスピードを上げていった。 乾きがちな目を何度も瞬きしながら、移り行く景色を見つめる。 全身で風を感じられるので、開放感があって気持ちいい。 山のふもとに着くと、木に残る紅葉と地面に落ちる紅葉がひらひらと舞っていた。 バイクで山を登れるところまで行き、茶屋がある広場まで歩いて行く。 かさかさと乾いた葉を踏む音が、耳に心地良く触れた。 「雅が店長やってる間に珈琲飲みに行くね」 私は歩きながら言った。 「うん。そういえば千夏、うちの店にあんまり来たことないね。萌さんはよく来てたイメージあるけど」 「そうそう。私も珈琲好きな方だけど、そんな頻繁に飲まないからなぁ。でも十月とかに絶対行く」 そんな話をしながら、くっきりと鮮やかな色をした赤や黄色の樹木の下を歩く。 茶屋でしばらくひと休みした後、また二人で歩いて来た道を戻った。 バイクが停めてある場所に戻り、私はヘルメットを被った。 あれ?閉まらない。 鏡を見ずに被ったので、留め具の部分がなかなか閉まらず、手こずる。 「貸して」 近くで見ていた雅は、そう言ってゆっくり私のヘルメットを脱がせた。 ふわり、と外の空気が頭を掠める。 雅は向かい合って、長い指で私の髪に触れ始めた。 その瞬間、急に心臓の鼓動が早くなり始める。 私を見下ろす体勢の彼と、なんだか目を合わせられない。 どうしてだろう。 自分でもよく分からない。 私は落ち着かない視線を定める位置を探し、ようやく地面に落ちる紅葉を眺めた。 雅は丁寧に、私の乱れた髪を優しく整える。 少し絡まった髪を指先でほぐしてくれていた。 そっと私にヘルメットを被せると、留め具を調節してしっかり止める。 少し冷たい、心地良い彼の指先が首筋に触れた。 また心臓が小さく跳ね上がって、コトコトと音を立てながら波打っていく。 「よし、できた」 雅はそう言って自分もヘルメットを被ると、バイクにまたがった。 私が乗るのを待っている。 私もシートに腰掛けると、来た時のように雅につかまった。 しばらく山を歩いたせいか、彼のシャツに仄かな葉っぱや土の匂いが香っている。 私はやけに大きくなっていく心臓の鼓動を雅に悟られないよう、少し体を離してつかまった。 ああ、帰りたくないな。 今日が、終わらなければいいのに。 ひっそりとしたそんな思いが湧き上がるまま、私は目を閉じてエンジンの音を聞いていた。 お腹の底に響くような轟音だけが、いつまでも耳に残っていった。
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