雅 ⑥

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雅 ⑥

いつものように出勤した僕は、ロッカーの前でエプロンを付けていた。 腰の紐を結びながら、壁に掛かっているカレンダーを眺める。 いつの間にか十一月だ。 十月から店長の代わりとして仕事をしているが、やはり忙しくて毎日があっという間だった。 季節の変わり目のせいか、体調を崩すスタッフも何人か出てくる。 僕はその分のシフトもカバーするために仕事に行き、休みもあまり取れずに夜遅くなることも増えていった。 今日も家に着いたのは夜の九時近くだった。 「ただいま」 家に入って台所に行くと、母が冷蔵庫の整理をしている。 「おかえり、忙しかったでしょ。軽くなにか食べる?」 「うん」 僕は上着を脱いで椅子に掛けると、手を洗ってお茶を淹れた。 母は野菜が入ったコンソメスープと、小さく切ったバケットを皿に盛り付けて出してくれた。 「いただきます」 皿の横にオイル漬けの魚の切り身が添えられている。 僕はそれをバケットに乗せて口に入れた。 ハーブやにんにくが効いていて、美味しい。 テーブルに乗っている切り身の入った瓶を見ると、母の手作りのようだ。 「旨いね、これ。何の魚?」 「ああ、ほら、秋刀魚をたくさんもらった時あったでしょ?あれをオイル煮にして保存が効くようにしたの。まだ冷蔵庫にあるから、食べればいいよ」 僕は千夏の家の庭で食べた、七輪で焼いた香ばしい秋刀魚を思い出した。 九月のことなのに、かなり前のことだったような気がしてくる。 「これ作った時、千夏ちゃんのところにも一瓶持って行ったの。まだ猫のことでお礼も言ってなかったからね」 母は千夏に会ったようだ。 「千夏、元気だった?」 僕がそう聞くと、母は笑った。 「千夏ちゃんにも聞かれたよ。『雅、元気ですか?』って」 母はそう言って、千夏は元気そうで、猫ともかなり仲良くやっているようだと僕に話した。 千夏、十月にはカフェに来なかったな。 萌さんもあの店を辞めてしまったから人手不足だろうし、彼女も忙しいのかもしれない。 次の日、僕はお昼から出勤して閉店の夜までシフトに入った。 夕方は少し客足も減り、店の中が落ち着く時間帯がある。 僕は店内のテーブルをチェックして、空いている席を拭いて周っていた。 「店長、店長、・・雅さん!」 いつの間にか呼ばれていた僕は、内心少し焦って返事をする。 「ああ、ごめん。どうしたの?」 「サンドイッチのテイクアウト、これだけ入ったんですけどお願いしてもいいですか?」 店内で接客対応していた後輩が、伝票を持って来ると僕にそう言った。 確認すると、作るのに少し時間が掛かる量だ。 「厨房入るから、ホールお願いしてもいいかな」 僕は後輩に台拭きクロスを渡して言った。 「わかりました。雅さん、誰か待ってるんですか?」 「どうして?」 「さっきから店の入口ばっかり気にしてるように見えたから」 後輩にそう言われ、僕は「そんなことないよ」と言いながら厨房に入った。 手を綺麗に洗い、パンと具材を揃えて、サンドイッチを作る準備を始める。 パンにバターを丁寧に塗り、具材を重ねる。全体が綺麗に収まるように形を整えた。 力加減を調節しながら、パンが潰れないようにそっと包丁を入れる。 慣れた手順を踏みながらも、頭の中はひとつのイメージが離れないままだった。 店のドアを開けて、カウンターで僕の名前を呼ぶ千夏。 仕事帰りの格好をしていて、テイクアウトの珈琲を買っていく彼女。 でもきっと、千夏は忙しくて来れないんだろうな。 僕はそう思いながら、包丁をそっと置く。 切り口の彩りが綺麗に仕上がったサンドイッチを見て、満足感を覚えた。 崩れないように丁寧にテイクアウトボックスに入れていく。 「お待たせ致しましたー。テイクアウトのお客様ー」 僕は声を張りながら、厨房から店内へ出て行った。
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