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千夏 ①
いつの間にか閉じていた目をそっと開けると、自分の足の爪先が湯舟に浮かぶのが見えた。
一昨日塗ったばかりの、ピンクベージュ系のペディキュアが塗られている。
私は冷えた肩に手のひらでお湯を掛けながら、ぼんやりその色を眺めた。
いつもの自分なら選ばない色だ。
この色の前に塗ってあったのは、ワインレッドだった。
落とすときに爪のふちに残っていた、深くてくっきりとした色を思い出す。
時間をかけて落とした、一昨日の夜。
コットンを動かしながら私の頭に浮かんでいたのは、この家に住んでいた亡くなった祖母の言葉だった。
「ちーちゃん、なあに?その色。もっと可愛い色、なかったんけ?」
少しなまりの残る口振りで祖母は、私の裸足の爪先を見て優しく言った。
当時高校生だった私は、少し大人ぶりたくて奇抜な色を好んで塗っていた気がする。
年配の人から見たら、好ましくない色だったのかもしれない。
「こういう色の方がサンダルに合うんだよ。おばあちゃんも塗る?」
私がそう言うと、祖母は朗らかに笑った。
「遠慮しとくわ。若い子はおしゃれできていいねぇ」
優しかった祖母。私が二十歳になる前に亡くなった。
今もこうして祖母の暮らしていた家に住んでいると、何気ない会話すら思い出すことも多い。
おばあちゃん、私が結婚するって言ったら、喜んでくれただろうな。
昨日、三年付き合っている彼の両親に会いに行った。
そろそろ結婚しないかという話が出たのは、今年に入ってからだ。
何も予定は決まっていないけど、とりあえずお互いの親に会っておこうという話になった。
五月の初め、土曜日の夕方。
車で四十分程の距離にある彼の実家に挨拶に行くため、私はいつも待ち合わせに使っている近所のコンビニへ歩いて行った。
慣れないパンプスが歩きづらい。
コンビニの店内に入ると、レジに並ぶ彼の姿が見えた。煙草と雑誌を買っているようだ。
私に気が付くとにっこり笑って、こちらに歩いてくる。
「いいね、そのワンピース。似合ってる」
彼は私の肩から足元まで眺めてそう言うと、自分の車に乗るように私に促した。
車の中では、彼はいつもより口数が少なかった。
初めて私を両親に会わせるので、緊張しているのかもしれない。
私は遠くに見える新緑が目立ってきた山が続く景色を、車の窓からぼんやり眺めた。
そういえば今年は、お花見に行けなかったな。
私は新緑の中に桜色を探したけど、もうどこにも見当たらなかった。
桜が散るのはあっという間だ。
静かな車の中で、私は窓の外を眺め続けた。
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