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隣の部屋のピアノがうるさい
隣の部屋のピアノがうるさい。
ここは都内にある小さなアパート。駅が近くて立地が良いのと、キッチンがあってバスとトイレが別と、備え付けの設備がそこそこ良いので、部屋の面積のわりには家賃は少し高めの場所だ。
俺がこのアパートに入居してから三年ほど経っただろうか。今勤めている会社に通勤するのに、特急や快速が停まらないとはいえ、直通の路線で行けるため、交通の便がとても良いので、入社する少し前にこのアパートへと引っ越してきた。
他の物件も家賃が高いせいか、このあたりの住宅街は暗くなってからでも治安も良いので、他の入居者がなにか問題や事件を起こしただとか、そういうことは俺がここに入居してから今までに一度も無かった。
そう、つい最近まではなんの困りごとも無く、気ままで平穏な日々を過ごしていたのだ。
けれども、今年の春、四月に入ってすぐくらいの頃、学生さんの入学式があるだろうという時期の少し前に、住んでいた女性が他の所へ引っ越してから数ヶ月の間空室だった隣の角部屋に、新しく誰かが引っ越してきたようなのだ。
隣人からの引っ越しの挨拶は、直接はされていない。俺がたまたま以前からあった予定のために外出していて、夜遅い時間に帰ってきたときに、おれの部屋のドアノブに、丁寧な手書きの挨拶の手紙と、いかにも高級そうな稲庭うどんが白いビニール袋に入ってぶら下がっていた。それで、隣の部屋に入居者が来たというのを知ったのだ。
わざわざこうやって、挨拶の品を持ってくるくらいだから、隣人はこのアパートに以前から住んでいる他の住人と同じように、なにも問題を起こさない、丁寧で礼節ある人だと思っていた。そう、留守中だということを鑑みて、ドアノブに置き手紙を残す程度には、分別もある人なのだと思った。
その時はそう思っていたのだけれども、その隣人がこのアパートに来てから、毎日毎日大きなピアノの音で、聞き慣れない音楽が隣の部屋から聞こえるようになってきたのだ。
はじめは、大音量でピアノ曲のCDをかけているのかとも思ったけれども、時々音程を外したりもするし、何度も同じ所を繰り返したりしているので、どうやら部屋にピアノを持ち込んで、熱心に弾いているようだった。
その演奏が上手いか下手かと訊かれると、その判断は俺にはできるはずもない。俺も音楽は結構聴くけれども、隣の部屋から聞こえてくるピアノの旋律のような、おそらく、クラッシックに分類されるジャンルのものは全くと言っていいほどわからない。そもそもでクラシックに昔からあまり興味が無いので、隣の部屋から毎日毎日聞こえてくる大きなピアノの音は、俺にとってはとんでもなく耳障りな騒音以外の何でもないのだ。
それにしても、と思う。そもそもで、このアパートは基本的に部屋の広さが六畳ほどしかない。不動産屋の住宅情報を見た限りでは角部屋は若干広いようだったけれども、それにしてもその六畳ちょっとの部屋に、どうやってピアノなんかをを持ち込んだのか、持ち込めたのか。まったくもってミステリーだ。こればっかりはどう考えてもわからない。
そんな、見るからに狭い部屋に、きっと大きいであろうわざわざピアノを持ち込むということもわからないし、なぜ隣人が毎日の日課のように、何度も何度も繰り返してピアノを弾いているのか。俺が考えてもわからない、答えの出ない疑問は色々とたくさんあるけれども、とにかく、俺が特に気に掛かっていて困っている問題は、聞こえてくるピアノの音が大きいことなのだ。
そんなに耐えられないほどであるのであれば、このアパートを管理している管理会社なり、持ち主である大家なりに、隣の部屋のピアノがうるさいと苦情を言えばいいのかも知れないけれども、隣の部屋のピアノは深夜や早朝にうるさいわけではなく、平日は夕飯の支度がはじまるような夕方頃、休日は昼食を食べたあとくらいの昼間などの、ある程度決まった時間、しかもピアノを弾くのであればまだ常識的と思われる時間に、多少の誤差はあれども、一時間ほど聞こえてくるくらいなのだ。これだと、賃貸の契約書に書かれているような迷惑行為にはあたらないだろうから、管理会社にも大家にも、どうにも苦情が言いづらい。
休日は昼食を食べ終わった後の昼間にピアノの音が聞こえてくるけれども、それが家にいる時はほとほと困ってしまう。俺は比較的、休日は友人と遊びに出るだとか、アイドルのライブにいくだとかで昼前から夜にかけて外に出かけていることが多いのだけれども、たまに家にいる時に、お腹いっぱいになって部屋で昼寝をしようとすると、あの大きなピアノの音が聞こえてくる。時にはピアノに合わせて歌っている声も聞こえてきたりして、その声がまた大きくてよく響くので、ウトウトと気持ちよく寝ていてもすぐに起こされてしまうか、寝ようとしたところなんかだと、衝撃を受けたように一気に眠気が覚めてしまう。
そういうわけで、とにかく困る。もの凄く困っている。なんでそんなに大きな音を立てるのだと、もう少し音を小さくできないのかと、色々と不満には思うけれども、それも全部、やっぱり昼間におこることなのでやっぱり管理会社や大家に苦情を入れづらい。契約上禁止なわけではないからなおのこと苦情を言いづらい。
いっそのこと、隣の部屋のドアに付いているポストに、ピアノの音と歌声をもう少し控えてくれるように。といった内容の手紙を書いて入れることも考えたけれども、毎日毎週のように決まった時間にピアノの音や歌声が聞こえてくるということは、隣人にはなんらかの理由や目的があって、そのためにピアノを飽きる様子も見せずに弾いているはずなのだ。その目的が一体何なのか、俺には推察することはできないけれども、それでもそれを考えると、俺の昼寝をしたいだとか、そういった個人的な理由でピアノを無理にやめさせるのは、なんだか気が咎めるのだ。もちろん、ピアノを弾くことをやめさせて、きっと大きくて高価であろうピアノを無用の長物にさせるということも気が咎める。きっと隣人はそのピアノを大切にしているだろう。それを、俺が昼寝をしたいがために、ただの飾るだけの置物にさせるなんて、俺はそこまで非情になりきれない。
もっとも、俺はこうやって隣人が弾いているピアノの音を不快には思っているけれども、俺も俺で会社から帰ってきてから、けっこうな頻度、ほぼ毎日と言っていいかもしれない。それくらいの頻度で、そこそこ大きな音で推しのアイドルのCDをかけていたりするので、それもきっと隣の部屋に聞こえているのだろうから、言うなれば、音が大きいのはどっちもどっちだろうなという、なんというのだろう、若干の引け目のようなものがあるという事情もある。ちなみに、反対隣の部屋から、アイドルのCDの音量が大きいという苦情は来たことがない。一応、大きい音を出すのは賃貸契約に書かれている、大きい音が出る作業は夜九時までという規約は守っているのだ。それは隣人も同じで、そんな時間まではさすがにピアノを弾いてはいない。
それはそれとして、そんな風に自分がかけるCDの音量が大きいのが気が引けると言うのなら、俺の方がCDの音量を下げればいいだろうと言われるかもしれない。けれども、推しの歌は可能な限り、なるべく大きい音量で聴きたいのだ。大きい音で聴いていると、ライブに行って、推しのイメージカラーのサイリウムを振っている時の臨場感をよりリアルに、まざまざと思い出せてテンションが上がるし、なにより、大体は定時で帰れるとはいえ、毎日の仕事でたまった疲れやちょっとした嫌なことを忘れることが出来る。
一種の麻薬のようなもののようにも思えるけれども、これだけはやめられない。俺の生きる糧なんだ。でも、もしかしたら隣人にとってピアノは、俺にとってのアイドルと同じようなものなのかもしれない。そう思うとますます苦情が言いづらい。
そんな契約上の事情や、俺の内心の事情もあり、どこにも不満の申し立てをできないまま、隣人がこのアパートにピアノと共に引っ越してきてから数ヶ月が経った。あいもかわらず毎日のように大きなピアノの音が聞こえてくるし、休日昼間は歌付き。ぼんやりと昼寝をしたい休日にはうるさく感じるピアノと歌声だけれども、そうして昼寝をできないでいるうちに、心なしか外に出かけていない休日も、昼間はしっかりと起きていられるようになり、夜も早めに布団にはいってよく眠れるようになって、寝不足だとか寝坊だとかで崩れがちだった週初めの生活が規則正しくなった気がする。
そのおかげか、最近少し、以前よりも頭がはっきりして身体が軽くなったように感じるのだけれども、それはそれとして、隣人が毎日弾いているピアノの音がうるさいことには変わりがない。だれか、俺以外の人、例えば階下の人だとか、上の階の人だとか、なんならうちの反対隣の人なりが、管理会社や大家なり隣人なりに苦情の申し立てをしてくれればいいのに。自分が苦情を言う勇気も度胸も無いし、隣人から大切な物を奪う最悪感を抱えたくないからと、そんな他力本願な事を考えて日々を過ごす。
仕事で会社に行って、人のざわめき以外何も聞こえない環境にいる時も、あの大きな、なんの曲だかわからないピアノの音のことを思い出すと、心がなんだかモヤモヤするような気がした。そのモヤモヤは、隣人が無神経に思えるからか、自分で苦情をいうことができないでいる悩みから来るものか、どちらかはわからなかったけれども。
隣人に不満を抱えながら過ごしていたある日のこと、仕事で出張に行くことになった。これは先月あたりから、うちの部署から誰かを行かせようという話があったのだけれども、他の仕事に余裕がありそうな俺に白羽の矢が立った。まぁ、実際仕事は溜め込まないたちなので、急に出張と言われても、特に困ることはないのだけれども。
新幹線に乗るような遠方だということと、朝早くから仕事があるということで、前日から新幹線に乗り現地のビジネスホテルに泊まることにした。交通費と宿泊費は、一旦は自分で払うけれども、後ほど領収書を提出すれば会社の方から出るということになっている。それなら、一泊くらいの出張なら気分転換がてらに丁度良いだろう。
泊まりの用意は、会社に行く前に着替えや携帯電話の充電器、それに仕事で使うノートパソコンなどの荷物をまとめておいて、それを会社に持ち込み、定時に会社を出たあとに、直接新幹線に乗り込んだ。
新幹線の指定席に座り、いつも持ち歩いているMDプレイヤーに繋げたイヤホンを耳に付けて音楽を聴く。聴いているのは、お気に入りのアイドルの曲だ。こういった電車での移動中は、暇つぶしも兼ねて音楽を聞いていることが多い。MDにはお気に入りの曲を入れられるだけ入れてある。そんなとっておきのMDを、今日は三枚ほど持ってきてある。
MD一枚分の曲が終わったので、上機嫌でMDを入れ換える。そうしながら新幹線の窓から外を見ると、夕日で空が朱く染まっていた。丸いけれども少し歪んだ太陽と、光を受けて光る雲。それから、夕日の上に迫ってきている藍色を眺める。もうそんな時間なのか。そう思って腕時計で時間を確認すると、いつも隣人がピアノを大きな音で弾いている時間になっていた。
イヤホン越しに聞こえる新幹線の走行音を聞いて、周囲は静かなのだと実感する。すると、今日はあの煩わしいピアノの音から解放されているのだと嬉しくなった。けれども、なぜかあの不快なはずのピアノの音が聞こえないことに、正体のわからない据わりの悪さを感じた。
なんで、急にそんな風に思い、感じるのだろう。あのピアノの音を聞く度に、苦情が言えるものなら言ってしまいたいと、できれば他の誰かが苦情を言ってくれないだろうかと、あれだけ何度も思っていたのに。
夜空と一番星に追い立てられて沈んでいく夕日を見ながら、少しぼんやりとする。耳に填めたイヤホンから聞こえるお気に入りのアイドルの歌も、うまく捉えられなくなりいつの間にか上の空になってしまっていた。
それに気づいてはっとした。なにを考えていたのだろう。いや、もしかしたら考えてはいないのかもしれない。どちらなのかはわからなかったけれども、とにかく俺は気分を変えようと、駅で買っておいた駅弁を広げる。夕飯を食べれば、あのうるさいピアノの音のことを忘れて、イヤホンから耳に流れ込んで聞こえる大好きなアイドルの歌に、集中出来ると思ったのだ。
それなのに、いつもはあのピアノの音が聞こえる中で食事の準備をして、やんだ頃に晩の食事をしているなということを思い出してしまい、そのことが意識に上った途端に、余計に隣人が弾いている、曲名も知らないピアノの音のことに考えがいってしまう。
おかしい、俺はたしかに、あの大きなピアノの音を迷惑だと思っているはずなのに、どうしてつい、そのことをこんなにもしつこく考えてしまうのだろう。不思議に思いながら、それでもおいしく感じる駅弁……けれどもどこか物足りなさがあるような気がする……それを食べて、食べ終わって駅弁の箱を入れていたビニール袋にゴミをまとめると、急に自然と、イヤホンから耳に流れ込んで聞こえてくるアイドルの歌がくっきりと認識出来るようになって、集中出来た。
そうだ。いつもはあのピアノの音を聞きながら用意した食事を食べ終わったあとに、このアイドルの曲のCDを大きめの音量でかけて聴いているのだ。だから、夕飯の駅弁を食べ終わって、それでまたイヤホンから聞こえるお気に入りの曲に集中出来るようになったのだろう。
すっかり暗くなった窓の外を見ながらまたアイドルの曲に没頭して、そうしてようやく、あの煩わしいピアノの音のことが頭から抜けていった。
これは嬉しいことのはずなのに、なぜか少しだけ喪失感があった。一体なぜなのだろう。それを深く考える前に新幹線は目的の駅に到着する。俺は荷物とまとめたゴミを持って座席を立った。
翌日、出張先での仕事が終わり、昼間のうちに東京へと帰ってきた。終業時間前に戻ってこられたので、一旦会社に行って仕事の報告と書類を置いて、少しだけ残っていた仕事を片付ける。それから、定時になったらすぐさまに家路につく。俺の報告を受けた上司は、なんとなく俺の調子が優れないように見えたのだろう、なんなら早めに帰っても良いと言ってくれたのだけれども、他の同僚が頑張っている中、俺だけ残っている仕事をせずに先に帰るわけにはいかないと思って、今日の分の仕事を片付けたのだ。
それにしても、泊まりがけで遠距離の移動をしたせいだろうか、それとも慣れない土地に行って調子が狂ってしまったのか、今日は自力で料理を作る気力が無い。なので、近所のコンビニで野菜多めのお弁当を買って家に帰った。コンビニ弁当は身体に悪いと言われているから普段は自炊なのだけれども、こういう時は便利でありがたい。
疲れているせいかぼんやりしながらアパートに着くと、あの隣人が演奏するピアノの音が聞こえてきた。隣人が住んでいる奥まった角部屋からこんな離れた所まで聞こえてくるような大きな音でピアノを弾くなんて、やっぱり他のアパートの住人も、もしかしたら近隣の他の家の人達も、迷惑に思っているのではないだろうか。そんなふうについ訝しがってしまったけれども、いざ自分の部屋に戻って壁越しに大きく響いてくるピアノの音を聴いていると、何故だか妙に安心した。仕事のことや嫌なこと、ストレスなど煩わしいことなどを忘れて安心してくつろげる自分の部屋に帰ってきたという実感が、急にわいてきたのだ。
そうして安心してしまっているということに気づいて、そこまで自分の生活にこの大きくてやたらと響く、理解することが難しいピアノの音が食い込んでいるのかと思うと、心の中がモヤモヤした。
誰が作ったなんという曲なのか、そんなことも全然わからない、けれども楽しげに弾いているように感じられるピアノが奏でる音楽を聞いて、俺は不快なはずなのだ。毎日毎日仕事から帰ってきて、この響きが聞こえてくる度に、耳につくピアノの音がやんで静かになるまでの時間をぐっと耐え忍んで、なるべく聞き流すようにしているはずなのだ。
そう、できれば苦情のひとつでも言いたい。隣人がピアノにかける情熱を無視することが出来るのであれば、管理会社にでも、隣人その物にでも訴えかけたい。そう思っているのに、この一定時間華やかに鳴り響くピアノの音は、もう俺の生活とは切り離せないものになってしまったように感じる。
どうして、どうしてそんなことに……
またピアノの音とそれを奏でる隣人のことを考えて頭の中がいっぱいになり、湧き上がってくるモヤモヤした気持ちを抱えているうちに、ピアノの音がやむ。それに気づいて、俺は部屋の隅に置いている愛用のCDプレイヤーの電源を入れて、音楽をかける。あれだけピアノの大きな音を不快に思っていながらこれは矛盾した行動だとは思うけれども、少し大きめの音量で聴くアイドルの歌はとても良い。やはり推しは人の心を救ってくれる。お気に入りの曲を聴いているうちにモヤモヤした気持ちはどこかへ行き、ピアノの音に対する不満も気にならなくなり、機嫌良くコンビニ弁当を食べ始めた。
なぜだろう、昨日新幹線の中で食べた駅弁よりも、このコンビニ弁当の方が食事をしているという実感がある。駅弁の方がずっとしっかりした内容なのに、何とも言えない不思議な気持ちになった。
そんなある日のこと、いつも通りに仕事を終わらせて定時で退勤して、地元のスーパーで夕飯の材料の買い物を済ませて、部屋に戻ってくると隣人が弾いているはずの、あの大きなピアノの音が聞こえてこなかった。
思わず腕時計を見る。今日は想定していたよりも早く帰ってこられたのだろうかと思ったのだけれども、確認してみると、いつもなら隣人がピアノを弾いている時間だった。それなのになぜ、今日に限ってあの騒々しくて近隣に響き渡るはずのピアノの音が聞こえてこないのだろう。
もしかして、隣人が外出中にどこかで事故に遭って病院に運ばれたのだろうか。それとも急病で倒れているのではないか。どこかで危ない目にあっているのではないか。もしかして、もしかして。色々なことが頭を駆け巡っていく。自分でもよくわからないけれども、隣人になにかがあったのだろうと、思わずそう考えた。
けれども、俺がどんな風にこうして心配しても、連絡手段をなにひとつとして知らない隣人に、俺がなにか干渉出来るわけではない。それに、いつものあの騒々しいピアノの音が聞こえないなら、それに超したことはないはずなのだ。あれだけ疎ましく邪魔に感じていたあのピアノの音が鳴らずに、静かでいてくれるのなら、それ以上のことはないはずなのだ。ほんとうにそう思う。それなのに心は落ち着かなかった。
手に持っていた荷物を部屋の中に置いて、いつもの部屋着に着替えて、なぜだかそわそわとして落ち着かない気持ちを抑える為に、胸を開いて思いっきり深呼吸をする。それから、スーパーで買って来た野菜や肉などの食材を袋から出し、台所に立って、それらを使って料理をはじめた。
ごはんを炊くために炊飯器にお米と水を入れ、お急ぎモードでをセットしてから、野菜炒めを作ろうと、ざっくりと大きめに野菜を切って、火にかける前のフライパンに入れたところで、ふっと部屋に置いた愛用のCDプレイヤーの方に目をやる。あのやかましいピアノの音が……どんな理由かではかわからないけれども、なんであれ……聞こえてきていないのなら、お気に入りのアイドルの曲をかけようと思ったのだ。昨日、会社の帰りに買ってきたばかりの、発売を待ちに待った新譜を、昨日一度は聴いたとはいえ、まだまだじっくりと楽しみたい。そんな気分になったので、フライパンをコンロの上に置いたまま、火を付けていないし、多少離れるだけなら忘れないだろうし大丈夫だろうと、CDプレイヤーの置かれた部屋の方に行き、電源をつける。再生ボタンを押すと、CDの回る音が聞こえてから、聴いているだけで楽しくなるようなポップで明るい曲調の音楽が流れはじめる。伴奏に乗っている歌声は可愛らしいながらもしっかりと音程をおさえた、確かな技量を感じるものだ。曲調の好みさえ合えば、このアイドルの歌を高く評価する人も多いだろうという感じのものだ。
ああ、こんなにも追いかけてしまうほどに好きな音楽を、大きめの音量で聞きながら日常の細々としたことを少しずつ着実に手をつけ、済ませていく時間の、なんと幸せなことか。家事をやっていてたまに面倒だと思うことはあるけれども、それでも、生活の中の彩りとして好きな音楽が添えられているというのは、嬉しいことだ。生きているという実感を確かに得られる、そんな幸福感がある。
この小さくてささやかだけれども、満足感を得られる幸せを、隣人にもわけてあげたい。隣人のことを思い出しふとそんな風に思って、すぐに疑問になる。なぜ俺は、あんなに迷惑なピアノの大きくて騒々しい音を毎日のように鳴らす隣人に、自分が感じた小さいけれども確かな幸せをわけたいなんて思ったのだろう。顔も合わせたことがない、ただ毎日のようにピアノの音を聞かされるだけのあの迷惑な隣人に、なんでそんな気持ちを抱いたのだろう。少し考えたけれども、理由はわからなかった。
そんな理由のわからない自分の気持ちに疑問を持ったまま、台所へと戻る。フライパンを乗せていたコンロに火を付けて、キャベツやにんじん、タマネギに、切った豚コマなどを混ぜた野菜の山を強火で炒める。そうやって夕飯用の料理を作っていると、なんとなく、今聞こえてきているのが隣人が弾いている、あの大きくて騒がしいピアノの音ではなく、俺が大好きなはずのアイドルの歌であることに、何故だかはわからないけれども据わりの悪さを感じた。
そんな据わりの悪さを感じたあの日からまたしばらく経って、それから相も変わらず、やはり隣人の弾く、あのアパートの外まで響くほどに大きいピアノの音は、ほぼ毎日のように、毎回大体決まった時間に壁越しに聞こえてきていた。
ほぼ毎日のように、というのは、会社の残業だとか、友人と出かけていただとか、アイドルのライブに行っていただとかで俺の帰りが遅くなった時に聞いていなかったりとか、会社をいつもどおりの定時で帰れた時でも、時たまどういうわけだか壁越しに隣人の弾くピアノの音が聞こえない日がときたまあったりするのだ。
なんらかの理由で部屋に夜遅く帰ってきた時などは、ああ、いつもの時間を過ぎてしまったのだな。今日は随分残業したな。とか、今日は随分遊んでしまったな。とか、帰って来るのは遅くなったけどライブは楽しかったな。とそんなふうに思う程度で特に心に引っかかることはないのだけれども、会社で順調に仕事を終わらせ定時で退勤したり、出かけていても早めに、日が暮れる前に帰ってきたのに、隣の部屋からあの大きくて不快なはずのピアノの音が鍵盤ひとつ分だけでも聞こえてこないと、やはり隣人に、出かけている時に事故があったのかだとか、病気で倒れているのではないかとか、なにか事件に巻き込まれたのだろうかだとか、そんなふうになにかあったのではないかと心配になってしまうのだ。
隣の部屋から響いてくるあの大きくて騒々しいピアノの音は、少なくとも俺にとっては迷惑だから、できれば聞こえてこないに超したことはない。静かにしててくれる分にはそれ以上のことはない。そうしていてくれれば俺は、好きなアイドルの曲を好きなように好きな時に聴けるのだと、俺は隣人に対してずっとそう思ってると思っていた。実際今でもそう思っているはずだし、その気持ちは揺らいでいないはずだ。それなのになぜ、なぜこのところは、あの隣人が弾いている大きなピアノの音がいつもの時間に聞こえないと、こんなにも不安になるのだろう。あの隣人が奏でる大きなピアノの音に、聞こえてくるあの曲名もわからないメロディーに、知らない間に、無意識下で愛着がわいてしまったのだろうか。いやでも、俺は隣人に会ったことは一度も無い。挨拶状が玄関のドアノブにかかっていたことは今でも覚えているけれども、顔も知らない、人となりもわからない。どんなことをして生活をしているのか全くわからない、そんな隣人に、俺の中で愛着がわくはずなどないのだ。そう、隣人のことなど何も知らない。ピアノを弾いていることと、ときたまピアノと一緒に歌っていることがあると言うこと以外、何も知らないのだ。そんな、何も知らない隣人がなぜこんなにも気に掛かるのだろう。どんなに考えても答えは出ない。
どうしてだろう、このいいようのない不安はなんなのだろう。隣から壁越しに、あの大きくて楽しげなピアノの音が聞こえない日にそう考えて、でも、どんなに隣人に対する自分が抱えている印象を考えても、いや、考えれば考えるほど自分の気持ちがわからなくなって、落ち込んだ気分を大好きなお気に入りのアイドルの歌で癒やす。そしてどうしようもなく大きく膨らんだ不安を抱え、ぐるぐると隣人のことを考え続けたその翌日には、また決まった時間に隣から大きなピアノの音が聞こえてきて、それを確認するとひどく安心するのだ。
心の中で葛藤することを続けたそんなある日のこと、俺ははたと気づいた。いままでずっと否定していたけれども、俺はやはり、あの隣人が奏でる、壁越しに聞こえてくる大きくて騒々しいピアノの音に愛着を持ってしまっているのだと。
このアパートに引っ越してきてはじめのうちは、上手いかどうかもわからないピアノのメロディーだったけれども、それをほぼ毎日のように聞きながら日々を過ごすにつれ、だんだん隣人の演奏の腕が上達しているのがわかるようになってきたのだ。
隣人自体がピアノの腕を上げているというのはもちろんあるだろうけれども、俺の方も、だいぶクラシックの曲に耳が馴染んだのだと思う。それもそうだろう。ほぼ強制的にとはいえ、毎日のようにピアノの音を聞かされるのだ。意味を直接汲み取ることのできる、下手なワイドショーの喋り声なんかよりは、意味を汲み取ることができない、ただ音の連なりであるクラシック音楽は、聞き流して馴染んでしまうことはずっと簡単なのだ。聞き慣れたメロディーでなかったとしても、悪意を感じる言葉よりは心の中に入ってくることに抵抗が少ない。
そう思いつつ、はじめはあんなに反発した気持ちを持っていた、隣人が奏でるピアノの音に愛着を持ってしまったということを、俺はすぐには受け入れにくかったけれども、壁越しに聞こえる大きくて華やかで楽しげなピアノの旋律を聴いていると、このメロディーとそれを奏でる隣人に、知らぬ間にとはいえ、なんとも言えない愛着を持つことは決して悪いことではないのだと、だんだんと思えるようになってきて、素直に受け入れることができるようになってきた。そうなると、あの春の日から聞こえるようになっていた、隣人が奏でる壁越しに聞こえる大きなピアノの音は、もう俺の心をかき乱してイライラさせるような不快なものではなく、毎日聴くことが待ち遠しくなるような、楽しみなものへと変わった。
隣人が弾いているピアノの曲の曲名も、作曲者もなにも知らないけれども、時折音楽番組を見るためにつけたテレビ番組でのCMで、隣人が、きっと練習しているのだろう、頻繁に、何度もピアノで弾いている曲が流れると、なんとなく、この曲は作られてから長い間、ほんとうに長い間、色々な人に愛されて、何度も様々なところ……それはコンサートホールでオーケストラやプロの演奏家が演奏するものだけにに限らず、隣人のようにピアノやそのほかバイオリンなど様々な楽器を愛好する一般の家庭も含めて……で演奏されて受け入れられているのだと思って嬉しくなった。
今の俺にとってもうあの隣人が奏でる大きなピアノの音は、苛立ったり不快に思ったり、心をかき乱して怒りを感じさせるような、そういった耳障りなものではなくなっていた。
隣人が奏でるあの大きくて華やかなピアノの音が少なくとも俺にとっては、実は不快なものではなく愛着のあるものと気づいたあの時から、休日の昼間にに隣人が朗々とした声で歌っている、時には落ち着き時には明るい響きを持った歌声も、まったくもって不快なものではなくなっていた。ここまで心境の変化が出るということには驚いたけれども、俺の心はもうそのように変わってしまったのだ。
はじめは随分とものすごく響く大きな声で歌っていて、とんでもない近所迷惑だと思っていたけれども、その大きなよく響く歌声も、愛着のあるものとして改めてよく聴くと、低くてふくよかに響く良い声で、不快なものだという先入観さえなくなってしまえばリラックスできるものだった。隣人の声は、今思うとコンサートホールの舞台に立って披露されていてもおかしくないような、そんな魅力がある。その魅力に永いこと気づけないでいたのはもったいない気はしたけれども、それでも今はそれに気づけた。これは俺にとって良い変化のはずなのだ。今では隣人の歌声も待ち遠しい。
そんな隣人は、どうやら毎週日曜の朝はどこかに出かけていて、昼頃に帰ってきてピアノを弾いて歌っているようだった。聞こえてくる声からするに隣人は男性だというのはわかっていたのだけれども、彼が日曜の昼頃に歌っている歌は、どこの言葉かわからないものだった。ほんとうにどこの言葉なのだろう。学生時代語学の成績が悪かった俺には、隣人が歌う歌の歌詞の意味どころか、どこの言葉かを知ることすら出来ないのだ。その事が少しだけもどかしかったけれども、隣人が歌う歌を調べる術は俺にはない。インターネットで調べようにも、隣人の歌の歌詞を聴き取ることができないのだ。
隣人はどこでそんな異国の曲を覚えてきて、一体なにを歌い上げているのか、それを知ることは俺にはできそうもない。ただ、日曜の昼に奏でている音楽は、平日に弾いている華やかで楽しげな、聴く人の心を楽しくするような曲とは趣が違って、なんとなく厳かな響きで、迷いを抱えた心を救ってくれるような、神聖なもののように聞こえた。隣人は、歌を歌うことで俺のように迷いや偏見、凝り固まった重い気持ちを抱えた人々に救いの手を差し伸べているように感じた。これは、俺の主観だから、実際に隣人がどう言うつもりで歌っているのかはわからないけれども。
そんな心持ちに変化してからの俺は、気がつけば、その厳かなメロディーを歌う隣人の低い声を聞きながら、じっくりとドリップして淹れた苦くて香り高いコーヒーを飲むのが、日曜日の昼間の楽しみになっていた。もっとも、日曜日は俺の方が友人と出かけるだとかアイドルのライブに行くだとかとかで遅くまで外出していることが結構あるので、なんの用事もなくのんびりと家にいる時は。という注釈は付くけれども。
隣人の歌声を聴きながらお湯を沸かして、ドリッパーに詰め込んだ豆にゆっくりとお湯を注いで、ふくよかな香りを立てるコーヒーを淹れて、それをゆっくりと味わいながら飲む。これは確実に心安まる時間で、アイドルのライブに行って熱狂している時とはまた違った幸福感を与えてくれた。隣人の奏でる音楽の良さに気づく前までは、こうやって心安まる時間があるということすら想像出来ないでいた。ただ、他の人の話から、そうやって落ち着いて心を休める時間があるということを聞いてはいたけれども、実感出来ないでいたのだ。けれども今は、その想像出来ていなかったことを実感して楽しめている。
隣人のピアノの演奏は、日曜日もほぼ一時間ほどだ。その短くも長くも感じる一時間を、部屋の壁を隔ててはいるけれども、俺と隣人で共有しているのかと思うと、なんとなく不思議な気持ちだ。
いや、共有というのはおかしいかもしれない。隣人は、隣の部屋の俺が自分の奏でる音を聴いて、心安らかに過ごしていることなんて知らないはずなのだから。俺としても、隣人が奏でるピアノの音や歌声を聞いてリラックスして楽しんでいるというのを、隣人にはできれば知られたくない。はじめの内はあれだけ反発していたからという引け目があるというのもあるし、それだけでなく、勝手に聞いて勝手に癒やされているという事実を知られるのが、なんとなく気恥ずかしく思えるのだ。隣人としても、演奏を聴いて勝手に癒やされている俺のことなんか何も知りはしないだろう。
そして、俺も隣人がほぼ毎日一時間ほどピアノの演奏をしていると言う事以外は、隣人が普段なにをしているのかを知らない。学生なのか、社会人なのか、演奏以外にどのようなことをして過ごしているのか、どんな交友関係があるのか、そのどれも知らないのだ。それでも敢えて知っていることがあるとするならば、このアパートは単身者向けなので、隣人がひとり暮らしをしているということくらいだろうか。知らないことばかりだけれども、俺は隣人のことを深く詮索するつもりはない。隣人としても、プライベートなことに踏み入れられたくないだろうし、そう思ってしまうのは俺の心の裏返しだ。俺自身も、深く隣人に俺のことを詮索されたくないのだ。
それにしても、ひとりでピアノと一緒に生活するというのは、どんな気持ちなのだろう。きっと、隣人は俺とはジャンルが違えど……俺が聞くのは主に日本のポップスで、隣人が好んでいるのはクラシックなどの古めかしい印象のある曲が多い気がする……なにかしらの音楽が好きで、それでピアノを弾いているのだと思う。隣人がプロのピアニストなのかどうかはわからない。そもそも、隣人の腕前はピアニストとしてやっていけるほどの物なのかどうかの判断が俺にはできない。だから、ほんとうはどうなのかがわからないけれども、それは俺にはどうでもいいことだ。ただ、隣人がピアノを弾いたり歌ったりしているその時は、俺が大好きなアイドルの曲を大きめの音量でかけて聴いて、その曲に没入していいる時と似たような心持ちなのではないかと思ってしまう。
好きなこと、好きな音楽に没頭して、日々の些細な嫌なことを忘れたり、逆に、些細な嬉しかったことなどを思い出す。そんな時間なのだろう。それはどんな人にも持つことを許されている時間であろうし、お互い無理に干渉してやめさせていいものではないと今は思う。
そう考えると、俺と隣人の間に、不思議な絆があるような気がしてくる。音楽のある時間というのを共有して、それぞれに心を落ちつかせる。そんな時間をなんとなく、絆と呼びたくなったのだ。
おかしなことだ。俺が隣人のことをなにも知らないのと同じように、きっと隣人は俺のことをなにも知らない。もしかしたら、アイドルの曲をCDプレイヤーで大きい音でかけている迷惑なやつだと思ってるかも知れないけれど、きっとそれくらいだろう。それ以上の情報は隣人には知られているはずがないのだから。そして、そのこちらから聞こえる大きな音のアイドルソングという迷惑も、隣人にとって許容出来ないほどではないのだろう。大家の方から苦情があったという話は来ていないし、迷惑を訴える手紙も、おれの部屋のポストには入っていないから。もしかしたら、許容出来ないほどではないどころか、気にするほどのことでもないのかも知れないし、これはあくまでも俺の希望的な意見だけれども、隣人も俺の部屋から壁越しに聞こえるアイドルの歌を楽しみにしている可能性だってあるのだ。それを実際に訊いて確かめる気はないけれども。
毎日のように響いてくるピアノの音を聞きながら、時たま隣人のことをこうやって考える。けれども、わざわざ挨拶をしに行く気にはなれなかった。
お互い顔も知らないくらいの方が、良い距離感なのではないかと俺は思っているのだ。
それに、いまさら挨拶に行くのも不自然だろう。もしかしたら、その不自然だというのを言い訳に、俺は隣人のことをこれ以上知るのがこわいだけなのかも知れないけれども、それが実際どうなのか、自分でもわからなかった。
そのような感じですっかり隣人の奏でる大きなピアノの音を受け入れられるようになってしばらく、おれは体調の変化に気がついた。
どこか具合が悪い部分があるとかではなく、その逆だ。妙に体調が良い。
会社の方でやっている健康診断でも、健康に関する色々な数値、血糖値だとか、飽和脂肪酸だとか、腹囲だとか、血圧だとかが異常値を示すことはなく、このままの生活を続けてくださいと、そう言われるほどになった。去年の健康診断では、ちょいちょい引っかかる項目があったのに、こんな風に改善されていて俺は思わず驚いた。なにか生活を改めただろうかと思わず考えた。
なぜいきなりそんな健康的になったのか、健康診断の結果が出てしばらくの間は心当たりもなかったし、理由がまったくわからなかった。けれどもある日、いつものように隣の部屋から聞こえる大きくてよく響く、華やかなピアノの音を聞きながら、野菜多めの料理を炒めて作っていて気がついた。
こうやって、いつも大体決まった時間に聞こえる、隣人が奏でるピアノの音を基準に生活をするようになったので、食事の時間や就寝時間が規則正しくなったのだ。
去年や一昨年の健康診断で色々注意されたのもあり、以前からなるべく規則正しい生活になるように努力はしていたけれども、ただ時計を眺めるだけでは、いまいち時間が経っているという実感をとらえきれずに、その調節が難しかった。けれども、今は隣人がピアノを弾いて時間を教えてくれる。毎日のように同じ時間にピアノを弾いて、練習をしているのだろう。
気がつけば、ピアノの音が聞こえる間に料理の準備をして、食事をするようになっていた。ピアノの音がやんで、それから、今度は俺の方がCD一週分アイドルの歌を聴いて、シャワーをして、またCDを一週分聴きながら、その間だけインターネットを見る。それが終わったら、眠いか眠くないかにかかわらずにとりあえず布団に入る。そうすると、自然にすっと眠りにつけるようになっていた。そんな生活をしていたから、きっと規則正しくなったのだろう。いや、きっとなんて曖昧なものではない。確実に以前と比べて規則的な生活ができている。
改めて思い返して、確かにこのところは朝起きる時もあまりつらくない。以前のようについつい夜更かしをするということが減ったからだろう。
時間感覚を掴むためにアイドルのCDを聴くというのは、趣味であるということもあって隣人が引っ越してくる前からやっていたけれども、帰ってきてから聴き始める時間がまちまちだったので、いまいち生活が規則正しくはなっていなかったのだ。
きっと隣人は、俺や周囲に住んでいる住人達に時を告げるためにピアノを弾いているわけではないのだと思う。ただ、ピアノを弾くのが好きで、その練習が日課になっているだけなのだと思う。けれども、俺にとって隣人の奏でる華やかなピアノの音は、見ないとわからない時計よりも、しっかりと俺に時間を告げてくれるものになっていたのだ。
隣人のことをぼんやりと考えながら思う。はじめ隣人が引っ越してきたばかりの頃に、隣の部屋から大きくて騒がしいピアノの音が毎日のように聞こえてきた時は、とんでもない迷惑なやつが隣に来たとあんなに不快に思って、心にずっとモヤモヤを抱えていたのに、今となってはあの身体に響くような華やかなピアノの音が待ち遠しい。日曜の昼間に聞こえるピアノに合わせた朗々とした、厳かな歌声も、同じように待ち遠しかった。
たまに残業をして帰りが遅くなったり、友人と遊んだりアイドルのライブに行ったりとかで外出していたり、そして時たま隣人が出かけていていないのか、いつもならピアノの音が聞こえてくる時間になってもしんとしてなにも聞こえてこないなど、あの隣人が奏でる大きくて華やかで、圧倒的なピアノの音が聞こえてこないと、なんとなく心が落ち着かなくて、気持ちの据わりが悪くなるほどだ。
今日もいつものように会社を定時で退勤して、スーパーで夕飯の食材の肉や野菜、それに切らしかけている調味料などの買い物をして部屋に帰る。隣の部屋から大きくて楽しげなピアノの音が聞こえる。それを聞きながら、部屋着に着替えて台所に立って野菜や肉を刻み、煮るなり焼くなりして火を通し、夕飯の準備をする。ピアノの音と共においしそうな匂いを堪能する。それから、料理が出来上がったらゆっくりと食べる。今ではすっかり、これが俺の完璧な一日の一幕となってしまっていた。
隣人が引っ越してきたばかりの春の頃の、隣人が立てるピアノの音に悩まされていた俺が今の状況を知ったら、きっととんでもなく驚くだろう。信じられないとまで言うかもしれない。でも、そんな自分でも驚くようなことが起こっても、平穏な日常は続く。大切なもの、楽しみなものはたくさんある方が良いのだ。たとえそれが、はじめのうちは絶対に受け入れられないものだと思っているものだったとしてもだ。
隣人がこのアパートに引っ越してきてから約一年。その間に俺はだいぶ変わった気がする。以前はなにか気に入らないことがあるとすぐにイライラしていたのに、今は一旦気持ちを抑えることができるようになったし、推しのアイドル以外にも楽しみが増えた。それはあいかわらず音楽で、隣人が演奏するクラシックだ。このところは、時々セール品の安いクラシックのCDを買うこともあって、そのCDの中に隣人がピアノで弾いている曲が入っていたりすると、にんまりと嬉しくなったりもするのだ。
はたから見ていると、それはきっと些細な変化なのだろうけれども、良い方向に変われるのなら、それが些細なことでも自分にとってはとても重要なことだ。人間には変わらないようにしようという本能があるといつかどこかで聞いたことがあるけれども、その本能を手なずけてでも変われたのは、ほんとうに良いことだと思う。視野が狭くて、楽しみが少なかった俺が、また新しい楽しみを見つけられたのだ。こんなことは学生の頃以来だった。
隣人はこの一年で、俺に大切な物を与えてくれたのだ。それは、新しい楽しみだけでなく、自分とは相容れないものをいったん受け止める姿勢だとか、自分とは違うものを否定するのではなく、それはそれとしてあっても良いと思えるようになったことだとか、そんな色々なことだ。
そう、はじめは俺にとってあんなにも迷惑だったあのピアノの音と歌声で、隣人はきっと知らぬ間に、けれどもきっと自分自身のために根気強く続けることで、周りの人間を、少なくとも俺のことだけは、より良い方向へと導いて変えたのだ。
気がつけば顔も知らない隣人は、俺にとってかけがえのない存在になったような気がした。
隣人と顔を合わせないまま、一方的に隣人の奏でる華やかなピアノの音と、週に一回日曜日に聞こえてくる朗々とした歌声を楽しみにしている日々を送った。それは何気ない日々で、こういった日々がこれからもずっと続くと思っていた。たまに隣人と話したいと思うこともあったけれども、やはり今の距離感が丁度良いと挨拶に行くこともないまま、毎日を過ごしているうちに、隣人がこのアパートに来てから四年が経った。今年もまた、春が訪れてきた。
社会人になると学生の頃とは違って、一年経っても二年経っても生活が変わるという実感はあまり無い。年度末に会社の仕事で決算があるのでそれで慌ただしくはなったりするけれども、それを乗り越えてしまえば、また去年や一昨年と同じように、何も変わらない日常が続くような気がするし、続いていくのだと漠然と思っていた。
けれども、時の流れを感じてしまう出来事が、今年のある春の日に起こった。
よく晴れて暖かい、桜の花が散り始めた、そんな毎年変わらないような休日のこと、朝から友人に会うために出かけて、友人が急に予定が入ったと早めに現地で解散した、そんなすこしだけ不満を抱えて昼過ぎにアパートに帰ってきた時のこと、アパートの横に引っ越し用の大きなトラックが横付けされていたのだ。
このアパートに新しく誰かが引っ越してくるのか、それとも、誰かがここから出ていくのか。何にせよ自分には関係が無いだろうと思いながらも、少しぼんやりと引っ越し業者が荷物を運んだりという作業をしているのを見ていたら、どうやらトラックに荷物を運び込んでいるようだった。つまり、このアパートから誰かが出ていくのだということに気づいた。そのまま運び出しの作業を見ていると、二階の入り口から入って一番奥の角部屋、つまり俺の部屋の隣のベランダから、黒くて大きなグランドピアノを、紐やクッション材を使って運び出す作業をしているのが目に入った。
それを見て思わず驚く。ああやってグランドピアノを運び出すのかと言うこと、ほんとうに隣人は、あの狭い部屋にグランドピアノなんていう大きな物を入れていたのか。ということにももちろんとても驚いたのだけれども、それ以上に、毎日のようにあの部屋で楽しげにピアノを弾いていた、日曜日にはピアノと一緒に朗々と歌っていた隣人が、このアパートからどこかへと引っ越してしまうのだと言うことに驚いた。
思わず周りを見渡す。あたりにいるのは引っ越し業者ばかりで、隣人らしき人影は見えない。これから部屋に戻れば隣人に廊下で会うだろうか。そう思って緊張しながらアパートに入り、廊下を歩いて部屋に戻るけれども、結局隣人と顔を合わせることはなかった。
自分の部屋で、部屋着に着替えながら深い溜息をつく。
隣人が、このアパートから引っ越してしまう。どこかへ行ってしまう。ここに引っ越してきてはじめの頃は、毎日うるさく感じられて疎ましく思っていたあのピアノの音が、今ではすっかり待ち遠しくなっていた華やかで楽しげで、心和ませてくれていたあのピアノの音が、日曜日に聞こえてきていたどこの国のものかわからない、けれども朗々として、厳かで、ゆったりとした時間を作ってくれていたあの歌声が、このアパートから消えてしまうのだ。
もうあのピアノの音と歌声を聴くことはないのだと思うと、どうしようもなく寂しくなった。隣人の奏でるピアノの音と歌声が不快なものではなくなったあの日から、ずっと楽しみにしていた、そんなかけがえのないものが、今、俺の生活の中から消えようとしている。
隣人がここに引っ越してきたあの日、引っ越しの挨拶状を隣人がおれの部屋に持って来た時に、もし俺が自分の部屋にいたのなら、出かけることなくぼんやりとお気に入りのCDを聞きながら過ごしてしていて、そうしたら、挨拶に来た隣人に会えたのではないか。そうしたら隣人の顔を知ることも出来たし、多少は話すこともできただろう。そうしたら、もしかしたら、隣人が全く知らない人物になったのではなく、お互い語り合う事ができるように親しくなることができたのではないか。そう思うと、ほんの些細な運命のすれ違いが恨めしく思えた。
俺は隣人の顔を知らない。きっと隣人も、俺の顔を知らない。お互いなにをして生活をしているのか、日々どんな風に過ごしていたのか、そんな事を知る機会もないまま、少なくとも確実に、俺は隣人のことをほとんどなにも知らないまま、隣人はこの場所から、いなくなってしまう。
隣人がここをでて、どこかへ行っていなくなる前に、一度だけでも話してみたかったと、今になって思う。顔も知らないくらいの距離感の方が丁度良いなんて、それは隣人の正体を知って、自分の中の理想が壊れるのがこわかっただけなのではないかと今は思う。今思えば、そんな理想など早く捨ててしまえばよかったのだ。理想も恐れも捨てて、なにかしら口実を作って、隣人に挨拶に行けば良かったのだ。それをしなかった俺は、なんて愚かなのだろう。
ふと時計とカレンダーを見る。今日は日曜日。いつもなら、隣の部屋から華やかで大きなピアノの音と朗々として厳かな、隣人の歌声が聞こえてきているはずの時間だ。
台所に行ってお湯を沸かす。今コーヒーを淹れれば、すでに運び出してしまったピアノの音は無理でも、あの歌声くらいは聞こえるのではないかと思ったのだ。隣人が歌う、あのどこの言葉かわからない、けれども神聖な雰囲気の有るあの歌が、隣の部屋からまだ聞こえてくるのかもしれないと、そんな希望を持ったのだ。
けれども、部屋の外からかすかに聞こえてきたのは、先程のトラックがこのアパートの前から走り去る音だった。隣人は一足先に引っ越し先に行っているのだろう。隣の部屋からはなにも、ひとつも物音がしない。ドアが閉まる音さえも聞こえなかった。
もう隣人はここにはいない。彼は遠くの人になってしまったのだ。この四年間、顔も知らないままずっと隣にいて、俺が一方的に親愛と絆を感じていた隣人は、なにも言わず、姿も見せず、俺の隣から幻だったかのように消えてしまった。
この四年間、会おうと思えばいつでも会えたかも知れない環境だったにもかかわらず、一度も隣人に会うことが出来なかったという後悔が、心の中でモヤモヤとわだかまった。
俺はどうして、もっと早く隣人に声を掛けなかったのだろう。きっと一度だけでも言葉を交わしていれば、こんなに後悔することもなかったのに。
外から鳥の声が聞こえてくる。窓から差し込む光に包まれる中、俺はそっと滲んできた涙を手の甲で拭った。
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