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十六匹目
人生で初めて顔に痣を作った。
寝ても覚めても頭はすっきりしなくて、昨夜の出来事をまるで他人事のように思いながら洗面台の鏡を覗く。背後で鳴く黒猫にご飯の催促をされ、もうそんな時間かとリビングへ足を向けた。
「あ、だいずそれ玉城くんの…」
洗濯して畳んでおいたはずの、玉城の服の上で寝る猫に声が洩れる。せっかく懐いていたのに、君たちが好きなあの子はもうここには来てくれないかもしれない、なんて弱気にもそんな事態が頭を過った。
「悠太朗さん、その顔どうしたんですか?」
出勤後、厨房で仕込みをする悠太朗に、社員の女性が頬を指して痛そうだと顔を顰めた。隠す術がないのでこのまま来たが、やはり頬では目について仕方がない。
「これは…。新しく買ったキャットタワー組み立ててたら倒れてきてさぁ」
「どんな勢いで倒れてきたらそんな痣が…」
「いやー打撲って結構痛いんだね」
おざなりに笑う悠太朗は、食器を洗う佐久間と目が合いどきりとした。この場で一人だけ、苦笑するでも呆れるでもなく、ただ何かを見透かしたような目をする。
しかし、特別言葉は発さず、食器を洗う手元に視線を戻した。詳細まではないにしても、今のが嘘であることが彼に見透かされた気がした。
(聡い子だからな…)
積極的に相手の領域へ踏み込むことをしない子だから、痣の理由を聞かれることはないだろう。佐久間は開店時間になると店の外にメニューボードを出し、並んでいた数組の客を席に案内した。水を配膳する際、一人席に座った青年と一言二言の言葉を交わす佐久間を見つけ、例の恋人だと分かった。
「いつもの幼馴染くん?」
悠太朗より後に厨房へ戻って来た佐久間を揶揄うと、少しだけ照れ臭そうに笑った。
「今週から始まったパンケーキを食べに来たそうです」
「彼、新作が出るといつも来てくれるよね。まだお客さん少ないし、ホールは任せて君が作ったら?」
悠太朗は仕込みをしていた作業台を譲り、ドリンクの準備に取り掛かる。最近始めた洋梨のパンケーキは売り出し早々から好評で、清々しくも上品な甘さと紅茶がよく合う。例の彼も今回はココアやキャラメルラテではなく、アイスミルクティーを注文していた。
「相変わらず仲いいんだね」
パンケーキを焼く間、冷蔵庫から取り出した洋梨のコンポートを切る佐久間につい言葉が出た。佐久間は進んで身の上話をするタイプではないから、数年単位で一緒に働いている悠太朗でも知らないことが多い。
それでも、両親との関係を上手く築けず、半ば絶縁のような形で実家を出たことだけは知っていた。本店でアルバイトをしていた佐久間に、支店の社員として話を持ちかけた時にそう聞いた。
「前に佐久間くんと話してる時、彼に凄い形相で見られたけど、僕嫌われてるのかな」
「あははっ…!確かに、いつだったか職場の店長がどうのこうの言ってましたね。俺の交友関係が狭いので、珍しく親しい人がいると気になるだけだと思いますけど」
「愛されてるねー」
「そうですね。俺の話を最後まで聞いてくれたのは、湊さんが初めてですから」
噛み締めるように佐久間が言い溢し、紅茶の抽出が終わったことを知らせるタイマーが鳴った。彼の名前を恋人として聞くのは初めてだった。ミルクティー色の髪をした佐久間はまるで羊のようで、微かなバニラを纏い、いつだって軽やかに笑う。故にそんな印象とは裏腹な話の内容が、酷く人間臭く感じた。
「こんなこと言うのはなんだけど、佐久間くんのそういう話聞くと、なんか安心する。君も人間だったんだなって」
「俺のことなんだと思ってるんですか?後ろ暗い話の一つや二つありますよ」
「例えば?」
「両親がどんな目に会おうと、きっと俺は何も感じないんだろうなってこととか」
現実めいた声色に背筋を寒気が走った。優しげな容貌をしてる分、余計に凄みを増す。
「親に構って欲しくて子供が非行に走るとか、同じ仕打ちをされるとか、そんなのはドラマや漫画の中だけなんです。実際はもっと単純に、面白い程無関心になっていく。相手が傷付こうがいなくなろうが……死のうが、別にどうでもよくなります」
佐久間は盛り付けの終わった皿をトレーに乗せ、悠太朗の淹れたアイスミルクティーを隣に添えた。
「なんて、世間知らずな子供の生意気です」
その青年は軽やかな声で実に柔らかく笑う。親になったことのない悠太朗だけれど、とても耳に痛いことを言われたような気がした。ここはドラマの世界ではないし舞台でもない。作者がいて、物語を紡いでくれるなどありはしないのだ。
「佐久間くんっていくつだっけ?」
「今年で二十一です」
年齢を聞き、悠太朗は自身の不甲斐なさに笑えてしまった。自分が佐久間の歳の頃に想像していた大人はもっとちゃんと大人をしていたのに。仕事を終え、ロッカーの鞄で鳴っていた携帯電話にも、答えを出し切れていない自分を感じた。
「おー来た来た!」
通話相手が指定したバーに着くと、店内に知人を探す悠太朗に柴が手を振った。前に一度会って以来連絡は取っておらず、今回もまた唐突な電話だった。電話一本で来る悠太朗も悠太朗だけれど。
「急にどうしたの?」
柴の隣に座れば、カウンターに肘を付いたまま誤魔化すように小首が傾く。その手には中身の残り少ないグラスがあった。
「マスター、聞いて聞いて。こいつ俺の初恋の人」
「は?!」
柴は悠太朗を指差し、カウンターの中にいるバーテンダーに向かって自慢げに笑う。
「柴くん酔ってるだろ」
「酔ってない。ここ、そういう所だから大丈夫だって」
その言葉に改めて店内を見渡し、成る程と思った。女性客が見当たらないとは思っていたが、バーなんて縁がなかったので言われるまで発想すらなかった。客の男性同士の距離が近いのは、柴の言うそういうことなのだ。
「悠太朗も何か頼みなよ。奢るから」
「いや、僕は酒はちょっと…」
酔った先で何をするか分かったもんじゃないし、こういった類いの店で頼むべき物も分からない。
メニューがあって、名前を見るだけでどんな物が出てくるのかある程度想像出来るタイプではなかった。適当にアルコール度数の低い物を頼もうかと思ったが、ふと思い出したカクテルが一つだけあった。
「イタリアアイスティーって出来ますか?」
「なんだ、小慣れたもん知ってんじゃん」
バーテンダーに問うと、隣で柴が意外そうに言った。悠太朗の知るカクテルなんてそれぐらいで、意識を飛ばさずにいられるという意味でもそれぐらいしか頼めない。
「どうしたん。この痣」
そんな声に視線をやると、横から伸びた指先に頬を軽く突かれた。どこか面白がる様子だったが、悠太朗の憂う反応にきょとんと目が瞬く。
「喧嘩……みたいな、そんな感じ。前に言った子と付き合うようになって」
「まさかそいつに殴られたとか?」
「違う違う。その子に付き纏う相手がいて、ちょっとね」
詳細を濁す悠太朗に柴は説明をせがむことはなく、カクテルの注文時と同じ意外そうにしていた。結局、柴の用件が何で、どうして呼び出されたのか悠太朗は知らされないまま、アルコール一杯分の時間を他愛無い話題で過ごした。
「はぁー飲んだ飲んだ」
柴は店を出た所で大きく伸びをする。店内が仄暗かった為に、ネオンの光がやけに眩しく感じた。
「柴くんいつからいたの?結構飲んでたでしょ」
カクテル一杯の相場なんて知らないが、会計時の伝票を見て二、三杯の金額でないことは察せられる。しかし、柴は平常時と同じしっかりとした足取りではにかんだ。
「そんなだよ」
「そう…。僕はちょっと頭がぐらぐらする」
「マジで?本当に弱いな」
パパ活で初めて玉城と会った時と同じで、やはりここが理性の働く限界なのだ。
そんな悠太朗の目が冴えたのは、駅へ向かう途中。数歩先に捉えた玉城の姿に、最初は幻覚が始まったかとさえ思った。お互い相手の存在には気付いたけれど、すぐに言葉が出なかったのもお互い様で、悠太朗は状況を読み切れていない柴と玉城とを見比べる。
「すみません、悠太朗さんの職場に行って…そしたら朝番だからもう上がったって。一応連絡は入れたんですけど」
先に口を開いたのは玉城の方で、居心地悪そうに謝罪する。大凡、直接話をしに来てくれたのだろう。それに気付かなかったどころか、誤解を招きかねない相手といたことに、悠太朗は一気に酔いの覚める心地だった。
「急でしたし、また連絡しますね」
「ぇ、あ……うん」
悠太朗は喉元まで出た言葉を飲み込んでしまった。玉城と会釈をした柴は去り行く背中から悠太朗に視線を移し、その肩を叩く。
「行かんでいいの?」
叩かれた衝撃で詰まった息が通り、悠太朗をハッとした。いつも決定的な判断を迷って、何も出来なくて。相手の行動を待ってしまう狡さ。今回だってそう。未だ混乱する悠太朗の脳裏をあの日の斜陽が掠め、押された背中に漸く足が動いた。
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