三匹目

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三匹目

目を覚ました時から嫌な予感はしていた。 うつ伏せの体を起こすと同時に頭が軋んで、やってしまったという後悔が雪崩れ込む。客の前で酔った挙句、距離感を無視した行動。いくら相手が自分に興味を示さないからといって、二回目であの無防備さは本当に危ない。ユウにその気がなかったのが不幸中の幸いだ。 「っ、くしゅ…!」 背筋を走った寒気に一つくしゃみをして、体温計で測った体温は三十七度五分という微妙な数字だった。少し前まで徹夜が続いていたから、積もった疲れもあったのだろう。 そこにシャワー後の髪も乾かさず寝た昨晩が加わり今に至る。玉城は買い置きをしていた解熱剤を飲みベッドへと戻った。 けれど、潜り込んだ布団の中は心なしか空いて感じ、冷えた足先を擦った。秋口は人肌が恋しくなっていけない。猫の一匹でも一緒に住めば変わるだろうかと、メッセージの返信を片付けながら考える。 〝体調は大丈夫?〟 少し前に届いていたユウからのメッセージを見て、思わず布団に顔を埋め笑った。恋人や友達でもないのに、金で買った相手に随分と優しい。 (職業柄でコーヒーを扱うって言ってたけど、バリスタとかかな?) 昨晩の会話をぼんやりと思い出し、もしそうならばユウの選ぶ店は外れないだろうと勝手に期待をした。そこで玉城は、ユウと会うことが楽しみになっている自分に気が付いた。 (でも会ったばっかりだから、次に会うのは早くても数週間後だよなー) 過去の周期からしてそれぐらいは日にちが開くだろう。ユウの仕事が何なのかハッキリとは知らないが、余程稼いでいない限りはそう頻繁に指名はしてこない。そんな分かりきった事実を改めて目の当たりにすると、一人っきりの、暗い、自分以外の温度がない部屋で風邪とは違う寒気が走った。 (寝よ…) 風邪をひいた体では心細くなるばかりで、玉城は寂しさから逃れるように掛け布団を深く被る。その時届いたメッセージにはまだ気付けず、解熱剤の副作用で徐々に意識が遠退いた。 一方、ユウはピークを過ぎた厨房の片隅で、携帯電話を片手に賄いを食べていた。 「悠太朗さん」 「ん?」 小麦粉やコーヒー豆なんかを積んだ隣の椅子で、ユウは社員の女性からかけられた声に顔を上げる。そこには差し出されたコーヒーカップがあり、そういえば淹れてくれていたのだと数分前のことを思い出した。 「ありがとう」 横浜の潮風を仄かに感じるこのカフェは、以前ユウが働いていたカフェの支店だ。 そして店長に任命されたのがオープンと同じ一年と少し前。支店とはいえ店を一つ任されるのは初めてなので、本店から現場慣れしたこの女性社員と、元はアルバイトだった青年を社員として連れて来た。そこへ新しい従業員を数人雇い、どうにか店は賑わいを見せている。 「ねぇ、カフェラテが美味しい店って知ってる?」 カップの中身を見て思い出したのは、ユウからコーヒーの匂いがすると嬉しそうに笑った彼。まるでカフェラテを浸したような甘い髪色をしていた。 「カフェラテですか?」 前触れのない質問に女性は思案の素振りを見せる。女性の方が流行りに敏感な傾向があるし、店の製菓の大部分を担う人だから詳しいかもしれないと思った。 「すみません。どちらかといえば紅茶派なのでカフェラテにはそこまで詳しくなくて」 「そっか、そうだったね」 確かに以前そんなことを聞いた気がしなくもない。ユウもカフェラテの美味しい店ならいくつか知っているけれど、目がないと言うぐらいだから、ありきたりな店では満足しないだろう。 「そういうのは佐久間(さくま)くんの方が詳しいんじゃないですか?ね、佐久間くん」 食器を片づけに来た青年に気付き、女性は会話をパスする。元は本店でアルバイトをしていたのを、この店がオープンするのと同時についてきてもらった青年だ。本人は甘い物が苦手らしいが、彼の恋人は大の甘い物好きらしく、相手の好みに合わせてお菓子を手作りしたり、デートでも甘い物を食べに行くことは多いのだとか。 「なんの話ですか?」 「カフェラテの話。美味しい店知らないかなって」 「カフェラテは、そうですね…。そこの店で俺はカプチーノしか頼んだことないんですけど、ラテ系が自慢の店なら知ってます。ミルクが濃くて美味しかったですよ」 「ほんと?そこの店教えて教えて」 「ここから川崎方面に行った所で…あ、サイトのurl送りましょうか?」 「ありがとう。助かる」 佐久間から携帯電話に送られてきたサイトを開き、その後はあそこのチーズケーキが美味しいだとか、そこはテラス席の景色がいいだとか。仕事をしつつ語られる佐久間と女性の話を片耳に聞いていた。 「もしかして彼女さんとデートですか?」 女性の期待と揶揄いを混ぜた口調に、ユウはパチパチと目を瞬かせる。正直その発想はなかった。 パパ活は本来、恋人気分を味わう感覚で会う人間が多いだろうから、デートと言えなくもない気がする。無論、ユウと相手の間に恋愛感情はないので、どう表現するのが正しいのか。 「彼女ではないけど、その……」 「あっ、その濁し方は片思い中ですね?」 「片思い、と言うか…。うーん…まぁ、そんな感じ」 説明が難しいので、最終的に相手の思い込みを借りることにした。 片思いと聞くとユウが思い出すのは高校生の頃。甘いカフェラテが好きなその子が、校内の自販機で買っている姿をよく見かけた。高校三年間同じクラスだったにも関わらず、まともに会話をしたのは最終学年で同じ委員会になった時ぐらいだ。 「悠太朗って好きな子いるの?」 柔らかそうな癖毛が振り返り、放課後の図書室で聞かれたことがある。クラスの中心的なグループにいたその子はただただ眩しく、委員の中でも地味な部類の図書委員会に入ったことを意外に思っていた。 「いないよ」 心臓の早鳴りを悟られまいと、必死に声色を繕って返事をした。好きな人の有無を問われる質問は十代の耳には酷く甘い。目的の本を探し背表紙を撫でる指先も、斜陽に照らされる横顔も、脈略のない話始めさえわけもなく好きだったというのに、ユウは嘘を吐いた。 「そっかー」 間延びした稚い声だけが耳に残り、十年以上経った今でもユウは稀に考える。その時、肯定をしていたら何か変わっていたのかと。 「悠太朗さん、頑張ってくださいね!」 「え?……あぁ、ありがとう」 仕事仲間からの激励にユウはおざなりに頷く。手中にあるコーヒーは砂糖もミルクも入っていなくて、片手で事足りるような小さなペットボトルの、甘いカフェラテが不意に恋しくなった。質問の意図を述べない狡賢さに、ユウは恋心を捨てる手段を奪われたのだ。そしてそれを間に受けた哀れな少年は、あの斜陽が差し込む図書室から今日もまた抜け出せない。
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