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五匹目
「ネコさんって何でその名前にしたんですか?」
客の大半からされるその質問に、玉城はいつからか鬱陶しさを感じていた。
二週間ほど前、体調を崩しかけた時にメッセージを送って来たこの男性とは、今日が初対面だった。それがユウとあんなことがあった昨日の今日だなんて、タイミングが少し悪い。
思えば、SNSで使っているハンドルネームの所以を聞いてこなかった客は、玉城が記憶しているだけでユウだけかもしれない。
「ネコっぽいって言われるからです。あ、変な意味じゃありませんよ?」
玉城はグラスをカウンターに置き、意味ありげに目を細める。誘いと錯覚するような視線に顔を赤くする反応は魚が釣れた合図だ。恐らくこの客はまた玉城を買う。本当に人間は性の快楽に弱いと思った。
(あんまり期待させると面倒だけど、一人客を失ったわけだからその分は確保しとかないと)
おつまみのドライフルーツを口に含み、玉城は昨日の出来事を思い浮かべた。
カフェラテ一杯分の時間と称し、客としてではなくユウに付き合ったほんの数十分。玉城を買ったユウの理由は概ね予想通りだった。学生時代に好きだった相手が忘れられず、気が紛れるなら何でもよかったと。
ただし、それに続いた事実は玉城を驚かせた。
「実際会って見たら君がその子に似ていたんだ。髪の色とか、ピアスのこと、雰囲気もどことなく似ていたから、どうしても忘れられなくて二回目以降も君を買った」
そこまで話したユウは、肩の荷を下ろした時のように息を吐く。つまり玉城と好きな人を重ねていたのだろうが、物言いから察するに今も想いは断ち切れていないと思われる。
そして、第三者に〝好きな人と似ている〟などと言われて喜ぶ人間はまずいないとしても、僅かに生まれた物寂しさの意味に玉城は気付けなかった。
「でも、君を買うのはこれっきりにするよ」
「え?」
予想外に予想外な言葉が続き、思わず声が出る。けれどユウはもうそう決めたと見え、揺るがない態度で話を続けた。
「二回三回って会うにつれてやっぱり君はあの子じゃないことに気が付いたんだ。君は僕が好きだったあの子とは違う。単純に君との時間は楽しかったけどね。それが買われた手前の愛想だったとしても」
自嘲的な物言いに否定の言葉が喉まで出かかった。引き留める手さえ出るかと思った。本当は自分もあなたとの時間は楽しかったなんて、安っぽいドラマで使い古されたセリフが本音として浮かぶ。
しかし、区切りをつけたがる相手を一方的な感情で惑わせていいものかと。
「若い子をお金で買うなんてよくないことだとばっかり思っていたけど、案外悪くないね。慣れないSNSを使ってまでした甲斐があったよ」
勝手に自己完結するユウに、玉城は些かの苛立ちを感じてしまった。そうやってユウは一人気持ちの整理がつき、玉城だけが口に残ったカフェインを飲み込めずこの先を過ごす。そう思うだけで沈殿する孤独に心がサッと冷えるのが分かった。
「そうですか…。なら、俺と会うのもこれで最後ですね」
突き放すような羅列にユウが不思議そうにした。玉城自身、こんな感情を抱えるなんて思ってもいなかった。
「ねぇ……」
「じゃあ、俺はこれで。今日はありがとうございました」
ユウの声を遮り、立ち上がった玉城は振り返りもせず駅へ向かう。
飲み干したカフェラテのカップをゴミ箱に捨て、漸く今の自分は冷静でないと理解した。今日の分の代金を受け取っていないことに気付いたのだって、電車内でユウからメッセージが届いているのを見た時。
だが、玉城が返信をすることなかった。
(そう言えば、あの人が俺のことハンドルネームで呼んだの、最初の一回きりだったな…)
別の客からされた質問で、君としか呼ばない声を思い出すなんて重症でしかない。
SNSでの名前で呼ばれないことが、余計にユウを他の客と同じに見れなかった原因だろう。美味しいのかもよく分からないカルアミルクを片手に、男性の話に相槌を打つ時間。今までの玉城なら、心の内の何かが満たされていた。それがどうして、今こんなにも枯渇を持て余しているのだろう。
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