78人が本棚に入れています
本棚に追加
begins to move
相手の興味がどこを向いているのかわからないときに、映画や美術館は危険だ。趣味がまるで違う場合、どちらかがしらけてしまう恐れがある。できれば水族館か博物館――話題がなくても、目の前のものを眺めれば良いのだから。
〈サンシャイン水族館のチケットがあります。今度の土曜日にどうですか〉
チケットがあるのは、嘘じゃない。お客さんから貰った、と藤原に譲られた。すぐに返信は来ないだろうと龍太郎がスマートフォンを充電器に置い時、着信音が鳴った。
〈行けます。時間等お知らせください〉
時間等お知らせください……仕事の返事じゃないんだから。
行けますって返信しちゃった!
スマートフォンを握ったまま、即座についた既読マークを確認して、取り消せないかと焦っているのは美緒だ。頭の中がジタバタする。
会って確認しないと、どんな人だかわからないって鈴森に怒られるし。
自分への言訳が必要なのかも知れないが、何の言訳なのかは美緒にもよくわからない。とりあえず理解できるのは、龍太郎と会うこと自体がイヤなわけではない、ということだ。大体、イヤなのなら朝の挨拶なんかしない。
まずは友達からってね。考え過ぎんな、あたし!
そう思うこと自体が、相手を異性だと認めている証拠なのだが、美緒はそれに気がついてはいない。ともあれ、約束は出来上がった。
休日出勤の時と同じく、ジーンズにMA-1の龍太郎が電車に揺られている頃、美緒は池袋駅にくっついて建っているメトロポリタンプラザの化粧室で、自分のいでたちのチェックをしていた。散々考えた挙句、「友達から」と念じてニットコートにジーンズだ。
しまった! 篠田さんってあたしより足、細い! 並んで歩くとあたしの足がっ!
……後の祭だ。
なんであたしを誘ってくれるんだろ。面白そうに見えるかな。それも、今頃になってから浮かんだ疑問だ。いや、浮かばないこともないことはなかったのだが、龍太郎の容姿は、あまりにも情報の連想からかけ離れていた。「あーんなことやこーんなこと」をするようには見えないのだ。
よしっ! 新しい友達と、水族館に行くっ!
かくして土曜日の午後一時、池袋駅の「いけふくろう」前から、ようやっと話が動き出すのである。
混雑するサンシャイン通りを並んで歩き、サンシャイン60の奥のエレベーターに乗り込むまでの美緒は、どう見ても挙動不審だった。やたらキョロキョロしているかと思えば、龍太郎の横顔の気配を伺っていたりする。
やっぱり気が進まなかったのかな。
会ったばかりでそれを聞くのは、何かおかしいような気がする。つられて龍太郎まで挙動不審のまま、水族館の入口に辿り着いた。
ポケットからチケットを取り出し、入場口を通って進もうとした時、龍太郎のMA-1の裾が引っ張られた。
「チケット代、払います」
何を言い出されたか理解できず、龍太郎は美緒の顔を凝視した。大真面目である。
「えっとね、松山さん?」
「はい」
「チケット、タダ。販促用のご招待券。だから払ってもらうものはないの」
「はいっ!」
そこで、やっと思い当たることが浮かぶ。
もしかして、緊張してるとか? まさか。はじめて会ったわけでもないのに。
自慢にもならないが、龍太郎とふたりで歩いて、女の子が緊張するなんていう事態は、中学生頃の小柄さが目立たなかった時期だけだ。その後、まわりの友人たちが男臭くなるにしたがって、女の子たちは龍太郎を警戒しなくなった。姉がいるので、女の子と話すのに構えたところがないのも一因かも知れない。
「魚見る前に、ちょっと座ろうか」
アシカショーの時間にはまだ間があるらしく、吹きさらしのイベント会場で龍太郎は暖かい缶コーヒーを美緒に渡す。美緒はおとなしく受け取って、両手で缶を握った。
なんで水族館に入ってすぐにお茶? あたし、何か失礼なことした?
失礼なことをしたかという発想そのものが、どこか間違っているのだが、それ以外に考えることができない。
「魚、見に行かないんですか?」
「その前に、ひとつ提案。イヤだったら拒否権発動してね」
龍太郎は隣に座って腰を屈め気味にして、美緒の顔をすくいあげるように上目で見た。
うわ、反則的にかわいい!
そう思う美緒の表情を確認しながら話しだす。龍太郎だって生まれてからずっと、この顔とつき合って来ているのだ。女の子にウケる視線の使い方のひとつくらいは、知っている。かなり不本意ではあるが。
「仕事じゃないから、『松山さん・篠田さん』はイヤじゃない? 友達をさん付けで呼ばないでしょ?」
そこで距離を縮めるつもりだった。
龍太郎にしてみれば、大した提案ではないのだ。合コンの席ですら、隣の女の子は名前で呼ぶのだから。にもかかわらず。
俺、何か慌てさせるようなこと、言った?
「だって篠田さん、歳上じゃないですかっ!」
「二歳くらい、誤差のうちでしょ。見逃してよ」
えーっとあの人、なんて呼んでたっけ。
美緒は記憶の中から引っ張り出す。
「……篠ちゃん?」
「却下。そう呼ぶのはフジだけだし」
それってつまり、名前で呼べってこと?高校卒業以来、合コンの後のお茶程度を抜かすと、プライベートで男と一対一で出歩いたことなどないのだ。名前で呼べなんていうのは、あまりにもハードルが高すぎる。
鈴森のバカッ! こんなこと想定外だよっ!
「松山さん? 何か気に障った?」
龍太郎が声をかけた時、美緒はふっと自分なりに正気に戻った(つもり)らしい。
自分のことは名前で呼べって言っといて、あたしは「松山さん」? それって、なんて言うか。
「不公平っ!」
意味の理解できない龍太郎の視線が、美緒の顔の上で止まった。
「あたしに『篠田さん』って呼ぶなって言っといて、あたしを『松山さん』は不公平じゃないですか」
つい何秒か前まで困った顔をしていたくせに、真面目な顔で主張する美緒はやけに堂々としていた。
やっぱりこの子、なんかすっごくヘン!腹の底から浮いてきた泡が、抑えきれずに笑い声になった。
「あたし、何かおかしなこと言いました?」
「おかしくないです。そっちが正しい」
笑いがおさまらないまま、龍太郎は片手で詫びる。
「龍太郎でも、龍ちゃんでも龍君でもいいです。呼びやすい呼び方で」
そう言いながら、ベンチから立ち上がった。美緒もつられて立ち上がる。
「じゃ、中に入ろうか、美緒ちゃん」
「はい、えーっと……龍太郎さん」
美緒にしては精一杯頑張ったつもりだったのだが、すぐに訂正が来た。
「龍太郎さんって呼ばれると、なんかすっごく年寄りになった気がする。せめて、君にして」
「だって、あたし目下だし」
「だから、そこは見逃してよ。頼むから」
融通、皆無?
さっきから、どうもドツボな気がする。何で笑われなきゃならないの? あたし、変なこと言ってないよね。
目の前の水槽を眺めながら、表情に困っているのは美緒である。水族館は好きだ。熱帯の華やかな魚も、北の暗い海も好きだ。
だけど――ねえ? また、笑われる気がする。
龍太郎が笑おうと待ち構えているわけではない。逆に隣の顔が綻ばないので、どうフォローしようか思案中である。
明るいフロアでアマゾンの魚を見ていた時に、美緒は突然話しはじめた。
「アロワナとかガーとか、ペットショップで売るのって犯罪だと思いません?」
「はい?」
アロワナはわかる。目の前に泳いでいるから。ガーとは何ぞや?
「売ってる方は大きくなるスピードを知っているのにそれを言わないし、買う方は研究もしないで買う」
水槽の中のアロワナを目で追いながら、龍太郎は美緒の話を聞いていたが、知らないものは理解できない。
「ごめん。まずガーってのが何だか説明してくれる?」
※古代魚・ワニみたいな顔してます。興味があったらググってください※
ものすごくしっかり理解できたことはある。やっぱり緊張しているということ。
柴犬だ。かわいくて頑丈で、意外なほど警戒心が強い。
笑ってはいけない。
柴犬の性格っていうのは、飼い主の育て方に左右されるのである。飼いたいっ! とか思っても、責任を持って育て上げる覚悟がない者は、飼ってはいけない。まあ、動物全般すべてについて然るべきではある。今、龍太郎の目の前には、龍太郎とほぼ同じ程度の体格の柴犬が、首輪も付けずに自分の方を窺っている。
何故、誰にも飼われていないのだろう? 答えは簡単。犬と違って現金売買されないからだ。そして、犬と違って飼い主を選べるからだ。
あたし、なんか今の発言、すっごく唐突だった気がする!
美緒の頭は、またジタバタしはじめる。何か話さなければ、と思って出た言葉だったのだ。
友達! 友達! 新しい友達だってば! 落ち着け、あたし!
何もここで「あーんなことやこーんなこと」の展開があるわけはないのだ。美緒は龍太郎の横顔に、ちらりと視線を走らせる。色白の顔にサラサラした髪。でも、足の運びも手の仕草も女の動きとは違う。仕事上のやりとりではなく、楽しみや感情を今交流しようとしている人は―――
「美緒ちゃん? 水族館嫌いだった?」
「いいえっ! 水族館、大好きですっ! 楽しいですっ!」
考えんな、あたし!
水族館を一周回って、外に出た。まだ夕方とも言えないような時間だ。
「展望台にでも行く? 高い所、怖い人?」
「高い所は大丈夫です。ナントカと煙は……って言いますけど」
「俺もそのナントカのクチだ。今度は東京タワーにでも行こうか」
「大観覧車がいいな。葛西の水族館も好きです」
とりあえず、もう会いたくないとは思われていないらしい。
展望台の入り口で、また財布を出そうとする美緒を制して、龍太郎が先に立つ。
「だって、はじめて会った時からお金出してもらいっぱなしで」
「年下のかわいい女の子には、見栄くらいはりたいもんです」
臆面もなくこんなこと言えちゃう人なんだ。かわいいって言ってる本人の方が、あたしよりよっぽどかわいいのに。
「いつから、あたしの顔知ってました?」
美緒が『たぬきや』にひとりで入った時、龍太郎は確かに美緒の顔を知っていた。会釈したのだから。
「昼休みのエレベーターに乗り合わせたことがあるんだよ。美緒ちゃんが『たぬきや』に行きたいって主張して、他の人たちにダメ出し喰らってた」
いつのだろう? 年がら年中のことなので、美緒はまったく記憶にない。
「とにかく、その時に顔を覚えたわけ。で、面白そうだなと思ってて」
「面白いですか、あたし?」
「まだわかんないね。ちゃんと話してもいないし」
そこで話を切って、龍太郎は窓の外を眺めた。
まだ、ちゃんと話してもいない。気が合うかどうかなんて、わからない。「とりあえず、誘われてみ?」という鈴森の声が聞こえてきた。
あたしって、そこの部分を飛ばして来てたんだ。つきあっちゃおうか、なんて言葉ばっかり気にして。美緒は息を吸い込んで笑顔を作ってから、龍太郎の横に立って窓の向こうに目をやった。
「そうですね。よく知らない人と友達にはなれませんもん。龍太郎君、よろしくお願いします」
「はい、よろしく」
女の子にわざわざ声かけて、デートの段取りするのが「友達」か?
美緒と一緒にいた女友達(名前は忘れた)の「すっごい鈍い」がどこから来たのか、龍太郎は身をもって体験したのだった。
最初のコメントを投稿しよう!