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get nervous
さて、問題はどこに行くかだ、と龍太郎は迷う。
できあがってしまった恋人関係ならば、話は早い。お互いの興味が一致しそうな場所を、探すこともできるだろう。水族館と博物館は、もう行ってしまった。この寒空に、庭園を散歩でもあるまい。映画、美術館、植物園……どんなものに興味があるんだ? 忙しさに取り紛れ、考えついたのは、遊園地だ。
高い所好きだって言ってたから、ジェットコースターも好きなんじゃないかな。
どこへ行くとも知らせずに、待ち合わせた「いけふくろう」前。
「ごめん。スカートで来ると思ってなかった……」
「ヘンですか?」
焦った顔の美緒に、龍太郎も慌てる。
「いや、似合う。かわいい」
実は、ちょっとびっくりした。膝頭まで照れくさそうな姿が、妙にかわいらしい。おおっと見惚れてしまう程度には。
「どこに行くって言わなかった俺が悪いです。遊園地にでも、と思ったんだけど」
「行きたい! すっごく久しぶり!」
美緒の嬉しそうな顔に、龍太郎は申し訳ない気分になる。
「寒くない? 女の子は、腰冷やしちゃまずいでしょ。膀胱炎になるし」
うわあ、また真っ赤だ。
「なんで、そんなこと、知ってるんですか」
恨みがましく、ひとことずつ区切った言葉がたどたどしい。
「ごめん。姉貴がそれで大変だったことがあるの」
妹しかいない美緒に、家の中に男の子のいる環境はわからない。少なくとも、男の人から膀胱炎なんて単語が出るとは、今の今まで思っていなかった。リアクションに困って泣きそうだ。
意を決して顔をあげる。
「大丈夫ですっ! タイツ履いてるし、今日晴れてるしっ! 遊園地、行きましょうっ!」
「わかりました。そんなに決然と言わなくても」
何のツボに入ったのか、龍太郎はひとしきり笑ってから返事をした。
ドームシティへの電車の中で、ジェットコースターは苦手だと聞いた。高いところは好きでも、あのスピードが怖いという言葉は、意外だった。
「小さいころ、よくヒーローショーに連れて行かれました。父が好きで」
「戦隊もののショー、俺も行ったことがあるな」
ただの会話は、先に続けるための意識のすりあわせの意味を持つ。普段なら知識に過ぎないことが、相手の興味を探る手段だ。もうちょっと、近くに行きたい。
お子様向けの乗り物には、いくつか乗った。お化け屋敷で何故か笑いこけ、シューティングゲームで大騒ぎした。けれどやっぱり、遊園地と言えば――
「一回だけ、ジェットコースターに乗らない?」
「やだっ! 充分楽しいもん。乗るんなら、あたし、下で待ってる」
美緒の口調も、ずいぶんと馴染んできている。
「下で待ってられたら、俺が落ち着かないでしょ。一回だけ。そんなに激しくないから」
龍太郎は小首を傾げて、こんな時しか使えない顔をする。
これはずるい。こんな顔されたら、断わるあたしが悪人じゃない!
「一回だけですよ。それ以上は身が持たない」
善は急げ、と早速乗り場に向かう龍太郎のあとを、美緒はしぶしぶついて行く。しかし龍太郎が並ぼうとした先にあるものを目に留めて、足が竦んだ。何なの、あの角度。
「やっぱりやだっ!」
すでに涙目である。龍太郎は笑いを含んだ溜息をついた。走るように歩いたり重い荷物を担いだりする姿と、その表情は全然マッチしない。ヘンな子。
「じゃ、やめときましょ。貸しにしとく」
「借りときます」
ひとしきり遊ぶと、陽が傾いてくる時間になった。クリスマスのライトアップがはじまる。
「メリーゴーランド、行く?」
水に浮かんだようなメリーゴーランドは、それぞれの動物に工夫があって楽しい。嬉しそうに横座りになった美緒の横に、龍太郎も腰掛ける。
「なんかこう、がつっと膝で挟みたいですね。不安定」
「してもいいよ。まわりに大サービス」
スカートの裾から覗く膝に、思わず目が行く。視線に気がついた美緒が慌てて裾を整えて、上目になった。
「ずいぶん慣れてきた」
「何ですか?」
「俺に」
懐いた、とは言い難い。けれど、もう「知り合い程度」ではない。装飾をうっとりと見まわす美緒を、龍太郎は見ていた。
確定、だ。
メリーゴーランドを降りて、自動販売機で缶コーヒーを買って座る。ライトアップに人が集まり、園内のベンチは静かだ。
「美緒ちゃん、ちゃんと言っとくね。俺は美緒ちゃんとこれからつきあいたいと思ってるんだけど」
がちっと音がするほど、美緒が固まった。
「えっとね、イヤじゃなければ、当面試用期間ってことで」
えーっとえーっと。この場合、なんて答えればいいんだろう。試用期間ってことは、本採用じゃなくって! で、それの線引きって何なの!
パニック顔で下を向いた美緒の顔を、龍太郎は覗きこむ。それなりに手応えがあると思ったのは、間違いだったのだろうかと不安になってくる。こんなに悩ませるようなことなんだろうか。
「聞いていいですか」
注意深く龍太郎の視線と絡まないように顔をあげた美緒は、混乱した顔のままである。
「つきあうってどういうことなんでしょう? このまま仲良くなったらいけない?」
本当は、それが良いと思っていた。けれど半日一緒にいただけで、「友達からはじめる」が龍太郎にとって、難しいことだと自覚してしまった。友達と恋人は、違う。
「俺と一緒にいるのは、イヤ?」
「楽しいです。でも、具体的に『つきあう』のイメージがわからなくて」
男とつきあったことがないのだろうか? 美緒の顔には戸惑いばかりが浮かんでいる。それとも、断わる言葉を捜しているのか。
「イヤだったらイヤだって言ってくれても」
「そうじゃないの。何か定義があるのかな、と」
定義と来たか。
龍太郎の顔がふっと美緒に寄せられ、頬骨のあたりを唇がかすった。避ける暇も与えられず、美緒はそのまま大きく目を見開いた。
「日常的にこういうことがしたいってことです。独占権付きで」
ずいぶん遅れて上半身を思い切り引いた美緒は、両手に顔を埋めて呻いた。本当に免疫がないのだと、考えるまでもない反応だ。
「いきなりそういうこと、する人だったんですか?」
キスなんて、はじめてじゃない。ただ驚いただけだと自分に言い聞かす。
「そういうことする人なんです。おイヤでしょうか?」
こうなると、ペースを掴んだほうの勝ちだ。
「イヤとかそんなんじゃなくて」
「じゃ、決定」
「決定なんですか?」
「イヤじゃないんでしょ?」
「ずるい」
「イヤじゃないって言ったでしょ?」
上手く誘導された気がすると美緒が思っているうちに、龍太郎は空いた缶を持ってゴミ箱に向かっていた。
「ライトアップ見たら、池袋まで出て、メシにしよ」
美緒は、頷くことしかできない。
「さっきのも試用期間のうちなんですか」
「さっきのって?」
だから、頬へのキスだってば……それも、言えない。
「で、クリスマス・デートはどうだったの?」
昼休みにランチに引っ張って行かれ、美緒は鈴森の尋問を受けていた。さすがに大勢で取り囲んでの攻撃は避けたらしい。とは言っても、美緒の相手が「本館五階のかわいい彼」だというのを知っているのは、鈴森だけではなくなっているのである。
「……試用期間」
「何それ?」
拗ねたように口を噤む美緒の断片を繋ぎ合わせて、鈴森は推測する。
「何にせよ、そういうことになると思ってた。頑張ってね」
頑張るって、何を!
年末も二十八日になってから、龍太郎の仕事はやっと一息つく。現場は終わり、翌日の仕事納めは内勤することになった。毎年午前中から社内の片付けをして、適当な時間に納会が始まり、早い時間に解散になる。
飲みに行こうと藤原に誘われ、一も二もなく賛成してエレベーターでロビーに降りると、龍太郎の前に三浦がいた。
「あ、ふたりでどこか行くのぉ? いいなあ」
誘う気、ないから!
良いお年をー、と笑顔を返しながら、藤原に目配せして別館から出ることにする。ビルから出たところに、また見知った顔があった。事務服のままエプロンをつけ、髪を括っている。しかも、缶ビールのケースの上に段ボールを重ね、ツマミらしい乾きモノやスナック菓子を載せたものを抱えている。顎で落ちないように押さえているらしい。先に吹き出したのは、藤原だった。
「持とうか? フジ、ビール持ってやって」
とりあえず喋れるように上に乗せている段ボールの箱を外すと、美緒はほっとした顔になった。
「営業さんがそこまで車で持って来たんだけど、今、駐車場に車を入れに行ってて。この体勢だから下にも降ろせなくて、戻ってくるの待ってたんです」
「美緒ちゃんって力仕事担当?」
「持てますもん。納会は部単位だけど、女の子はもうひとりしかいないの。彼女は今、先に来たデリバリー品の用意してて」
持てないと言えば、当然誰かが手伝った筈である。
「ありがとう。なんか得しちゃった」
にこにこしながら言う顔を見て、ほっこりした気分になる。車を回して戻った営業に荷物を渡して、龍太郎と藤原はビルを出た。
「後で連絡する。明日から休みだから」
「あれがウワサの松山さんの彼氏?」
「誰がウワサした?」
「あちこちで。すっごくかわいいって。松山さんより小さいね」
「まだ本格的に彼氏じゃないっ! 身体の大きさは本人の責任じゃないっ! 放っといて!」
荷物を持って手が塞がっているので、美緒は足の甲で大木の膝の裏を蹴った。おおいて、と顔を顰めた大木と一緒に階段を昇る。
「彼氏ができても、女っぽくならないね」
「うるさい!」
階段が暗くて良かった。あたし、今、顔が熱い。
「あれ、三浦より上? 胸も色気も皆無に見えるんだけど」
「全然上。皆無じゃないだろ、見てないけど」
意識した上目遣いで、かわいらしさを自分から強調するような女は、いやだ。それよりも、スカートだからメリーゴーランドの馬に跨れないと、大真面目に言う女がいい。
「貧乳は、悲しい」
「でかきゃいいってもんじゃない」
「形も重要だよな」
何の話だ。
連絡、来ないんですけど。
十一時を過ぎた。龍太郎からのメッセージは来ない。美緒は隣に携帯を置いたまま、本を読んでいた。連絡がいつ来るのかと、読書に集中できない。
明日から休みだからっていうのは、明日待ち合わせしようってことなの? それとも休み中はどうするのかって話なの?
まだ出先かと思うと、連絡したらいけないかとも思う。遊んでいるのはわかっているのに、遊んでいる相手もわかっているのに、なんとなく気が引ける。連絡が遅いと文句を言うほど、まだ相手に慣れていない。
やっと着信音が鳴ったのは、十一時半だった。メッセージではなくて、通話である。
「こんなに遅い時間だと思わなかった」
そう言うのが精一杯だ。
「他の人が何人か合流して、帰るのが遅くなっちゃった。ごめん」
他の人、で美緒の頭に一瞬ピンクのコートが浮かぶ。あっちの会社、若い人が多くて仲が良さそうだったもの。その連想は、なんだかとても面白くない。美緒は納会の後、片付けに手間取って会社を出たのが八時過ぎだったのだ。
「連絡、待ってた?」
自分で連絡するって言ったクセに。
「待ってません」
「すぐ電話に出た」
待っていたことは、自分でもよく知っている。認めるのは、少し勇気が必要な感情のような気がする。
翌日の午後に待ち合わせることにして、通話が終わる。
「明日は遊園地なんて言わないから、スカートでも大丈夫だよ。屈むと見えそうなやつ」
「……オヤジ?」
受話器の向こうから、笑い声が届く。
「まあ、中身はそんなモン。映画にでも行こう。じゃ、また明日」
ちょっと酔ってたな、と美緒は思う。こっちが構えて喋らなければ、向こうも砕けた語り口になる。急ぐ必要はない、試用期間なんだから。こちらが向こうを知らない分、向こうもこちらを知らない。
待っている気分って、それほど悪くないな。
手足に力を籠めて立ち上がり、美緒はクローゼットを開けた。ボーイッシュな服に甘い差し色、鈴森に指導されたテクニックを試してみなくては。
試用期間でとか言っちゃったけど、すぐにでも本採用したいんだけど。こればっかりは慌てたら全部パアだし。
とりあえず「篠田さん」は、つっかえながら「龍君」になった。とても呼び難そうではあるが、仮がついても「つきあっている」のだからと言ったら、「そんなものかなあ」と要領を得ない顔で引き下がった。龍太郎の実家は電車でも一時間程度の場所なので、冬休みだからと長くいるわけでもなく、大晦日の晩に帰って、正月二日には自分のアパートに戻る。姉の結婚相手が挨拶に来て、父親が酔っ払ってしまったのを潮に家を出発した。電車の中でスマートフォンをポケットから出す。
明日、会えたらいいな。
〈妹と初売り巡りして、ぐったりしてます(福袋ゲット!)明後日は予定があるので、明日なら大丈夫です〉
送信してしてしまってから、美緒はもう一度文面を見直す。大丈夫、変なこと書いてない。
〈上野まで行く。会ってから行き先を決めよう〉
時間の連絡の簡単なやりとりの後、「おやすみなさい」のメッセージへの返信が「早く明日になるといいな」だった。スマートフォン相手に、どんな顔していいのかわからない。
なんだか恥ずかしいんですけど。
実は、休み中ずっと気にしていた。メールは毎日来るのだけれど会おうという言葉はなくて、実家に帰るのは知っていたが、実家からいつ戻るのか知らなかった。友達との新年会は、ずいぶん前に決まっていたので、四日は予定があると話した記憶はあっても、覚えていないかも知れない。気になるんなら自分から連絡すれば良いのに、それがなかなか難しい。
福袋の中身をベッドの上に広げ、その横に胡坐をかく。
何、着てけばいい?
明けて翌日、上野の大パンダ前で。龍太郎が着ているのはMA-1ではなく紺色のダッフルコート、「腰が寒いから」と至極真っ当な理由だ。インターネットの専門店でサイズを取り寄せているので、もちろん仕立はメンズである。子供服や婦人服とは肩幅が違うのだ。
姿を認めた美緒が近づこうとした時だ。東洋人ではないと思われる、身体の大きな男が龍太郎に近付き、何か話しかけている。道でも聞かれているのかと、美緒は足を緩めた。
と、みるみる間に受け答えする龍太郎の顔が赤くなっていく。
「男だよ! I'm a guy! ふざけんな!」
何を言われたのか、尋ねなくてもわかる。話しかけた男が立ち去り、龍太郎の顔色が戻ったのを確認してから、美緒は後ろから声をかけた。
「遅くなって、ごめんなさい。電車に乗り遅れちゃって」
見てないよな、見られてない。見られたくない。こともあろうに男にナンパされてるところなんて。シャツ一枚の夏場よりも、当然冬の方が確率が高い。そして今回、膝上まで覆っているコートだ。大抵の場合ごついスニーカーを履きバッグを持っていないので、日本文化で育った男ならば気がつくところだ。
よりにもよって、女の子との待ち合わせの最中に―――ちくしょうっ!
美緒の顔が微妙に気遣わしげなことに、気がつく余裕はない。
とりあえず東照宮で初詣をして、寒いので正月から開いている科学博物館に入った。芸がないと思わないでもなかったが、細かく見て歩くと結構楽しいものである。
中に、剥製だけを並べたフロアがある。
「なんか、怖い」
美緒は表情を強張らせた。室内はガラガラだ。
「生きていないものが生きてた時の形で立ってるのって、怖い」
美緒の指が宙をさまよっている。その指を龍太郎がキャッチし、下ろしてそのまま握る。
「案外と怖がりだね」
手! 手! 握ったままなんですけど! これは試用期間のうちなんですか!
しんとしたフロアの魂のない動物たちに、怯んだのは確かだ。でもこれは、剥製よりもインパクトが強い。握られている手を引き抜くのも、なんだか気が引けて、美緒は無口になっていた。龍太郎の顔には、ごくごくアタリマエの表情が浮かんでいて、自分だけがジタバタするのも癪に障る。手を繋ぐプラスアルファくらいなら、経験済み! オタオタしない!
それにしても、指の細いやさしい手。
自分の手に繋がる手をこっそり盗み見て、それからもう一度、まじまじと見下ろした。
「どうかした?」
「手、ずいぶん荒れてる」
通路まで出て、美緒は自分のバッグの中からハンドクリームを取り出した。
「せっかく綺麗な手なんだから、そんな風にしといたらもったいない」
「クリームの類、キライ。ベタベタする。綺麗じゃなくても不都合ないし」
「そんな細くて長い指、あたしと取り替えて欲しい」
言いかけて、龍太郎の顔が曇ったのが見えた。
「替えられたらいいんだけどね。俺はこんな手、好きじゃないし」
自嘲笑いのような溜息に、駅で見た光景を思い出した。「綺麗」は褒め言葉じゃないんだ。
「でも、その手は可哀想。ノビの良いクリームだから、ベタベタしないよ」
美緒がチューブを差し出すと、龍太郎は手の甲を上に向けて、胸の辺りで揃えた。
「塗って」
何を言い出したのかと、思わず顔を見る。
「俺は要らないって言ってるのに、塗りたいのは美緒ちゃんだもん。手、貸してあげるから塗っていいよ」
言い分は間違っていない。間違ってはいないが、これは―――
「そういうこと、言う人だったんですか」
「言う人なんです。おイヤでしょうか?」
額に手をあてて、美緒は俯いた。
えいっと覚悟を決めて、龍太郎の手を自分の手に乗せた美緒は、丁寧にクリームを伸ばしはじめた。華奢な人って、指まで華奢なんだ。あたしの手より、ずっとやさしい手。綺麗なのに、持ち主に気に入ってもらえないなんて、可哀想。
親指の付け根を強く押して、仕上げだ。顔をあげて終わりを告げる。
「ありがとう。手のマッサージって案外と気持ちいいね」
少し照れたように笑う龍太郎の顔から、美緒は慌てて目線を逸らす。この顔には、ちょっと逆らえない。強力な武器だ。
試用期間なんて言わなくたって、彼女なんてすぐに見つかりそう。たとえば、あのピンクのコートみたいな。
そう思ってから、自分の考えがイヤになる。とても卑屈になった気がした。
一度通った道は、通りやすい。寒いけど屋上に行ってみようか、と龍太郎は当然のように美緒の手をとった。文句を言うわけにもいかず、美緒はおとなしく手を引かれる。
ドキドキする。このドキドキは、ワクワクに近いドキドキだ。
龍太郎と美緒は今、感情を共有しているのだが、お互いがそれを知らない。不安を含みながらも何かが始まる予感を、自分の心の中に抱え込むのみだ。
屋上の休憩所で缶の紅茶を買うために一度手を離した龍太郎は、下のフロアに戻る階段で、また手を差し出した。
お手! わん! 懐きかけた柴犬は、もうじき首輪をつけさせてくれる……かも知れない。((注)そうは問屋が卸すか)
朝の悪い出来事を払拭したかのように上機嫌の龍太郎と、自分の感情に整理がつかないまま気分だけが上ずった美緒は、向かい合わせでパスタをフォークに巻きつけていた。
「大盛じゃなくていいの?」
「家にいると食べすぎちゃって、あんまりおなかが空かないの」
「疲れたんじゃないよね?」
普段から女の子扱いに慣れていないので、気を遣われると緊張する。
「大丈夫。あたし、頑丈だし」
「でも、筋力も体力も違うでしょ。俺みたいなチビでも、美緒ちゃんより腕力は強いし」
アイドル顔で笑う龍太郎に、腕力があるなんて想像もできない。この人は体重1.5倍に喧嘩仕掛けちゃう人だったな、と思い出す。とりあえず、美緒の想像の範囲外ではあるらしい。
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