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 朝の九時にがばっと起き上がった美緒は、自分のスマートフォンの画面を確認する。読まれていないと安心して削除しようとした瞬間、ふっと浮き出たのは燦然と輝く〈既読〉の文字。  ああ、夜中のテンションって怖い。なんて恥ずかしいメッセ送ったんだろ。あんなダイレクトな。顔から火を噴きそうだ。    時間を見ようとスマートフォンを持ち上げると、SNSの着信を知らせるランプが光っていた。炬燵の天板に頬を乗せて画面を開いた龍太郎は、メッセージを確認して思わず背筋を伸ばした。 「松山さんから? 上手く行ってんじゃん」  もぞもぞ起きだした藤原が寝惚けた顔で煙草に火をつけたのを横目で見て、窓を開けながらもう一度画面を見る。  瞬間で残った酔いが吹きとんだ。膝から崩れそうだ。炬燵の上に顎を載せて、煙草の煙を追っていた藤原の視線が龍太郎に留る。 「恋する乙女みたいだね、篠ちゃん」  龍太郎は炬燵の中に足を戻し、我が物顔で伸びている藤原の足を蹴り飛ばした。 「朝から赤くなるようなメッセが来るわけ?」 「うるせえっ!」  この動揺の仕返しは、明日してやる。なんだってこう、やられっぱなしなんだろうか。  返信は来てないけど、読まれちゃったんだ。美緒はベッドに入り直し、布団を頭から被って呻いた。  嘘じゃないけども! 覚悟は昨晩決めたつもりなんだけども! なんて文面をあたしはっ! 〈龍君がとてもとても好きです〉  何かを投げつけたい気分になのだが、何を投げたら良いのかわからず、布団の両側を身体に巻き込んだ蓑虫の形になって、伸び縮みする。 「美緒ちゃん、朝から何やってんの?」  気がつくと自室のドアが開き、妹が覗きこんで呆れた顔をしていた。布団の隙間から「おはよ」と返事を返す。 「麻紀ちゃん、明日チェックのワンピ貸して?」 「美緒ちゃんの会社の近所に、ザッハトルテの有名なとこ、あったよね?」 「……あれ、高価いんですけど」 「葛西臨海公園。大観覧車に乗りたいって言ってたでしょ?」 「今時期だと、空いてるかな」  翌日の打ち合わせをして電話を終え、美緒はスマートフォンを充電器に置いた。大丈夫、龍君変わってない。あのメッセについて何か言われたら、舌噛んで死ぬ!  妹から借りたワンピースを眺めながら、ふとキスに思い至る。龍太郎の形の良い唇、近付いてくる顔、目を閉じた自分。昨夜は頭がいっぱいで、それは重要事項じゃなかった。  えっとえっとあのあの! 大丈夫、未経験じゃないっ!  けれどそれは高校生の頃であって、これから順調に何事もなく進むと、その先には「あーんなことやこーんなこと」が待ち構えているのである。多分、間違いなく。  Bomb! 美緒は自分しかいない部屋で、赤面した。  葛西臨海公園の駅で待ち合わせに現れた美緒は、やっぱり挙動不審だった。一言で言えば、どっちを向いて良いやら、わかっていない顔である。 「短いスカート、はじめて見た」 「短いっていっても、ちゃんとスパッツ穿いてるもん。生足じゃないし」  自分と会うために、服装に気を配ってくれるのが嬉しい、と龍太郎は思う。美緒は龍太郎の顔を見ずに、やたらめったらキョロキョロしている。その手を掴んで水族園に向かい、チケットを買う時に一度手を離してから、入場してもう一度掴み直す。 「龍君、手を繋ぐの好きだよね」  素直に手を預けた美緒が、前を向いたまま言う。また緊張しているらしい。 「俺と美緒ちゃんのデフォルトですから」 「いつから?」 「これから。独占権付きで」  美緒の視線を捕えてから、龍太郎はにっこり笑った。 「昨日のメッセ、採用通知だよね」 「今、それ言わないで! やだもうっ! 離して!」  アカシュモクザメの前でジタバタする美緒の腕を脇の下に抱え込み、龍太郎はしばらく美緒の耳の色を見ていた。ちょっとおとなしくなったところで、腕を緩める。 「腕力は俺の方があるって言ったでしょ? 細いから非力ってわけじゃないんだから、諦めなさい」  手を握られたまま、美緒はしゃがみこんで膝に顔を埋め、呻いた。 「こんなところでそれを持ち出すなんて……こんな、隠れようのない場所で」 「じゃあ、どこなら良い? 海の見えるホテルのベッドの上? 立ちましょうね、邪魔になるから」  ほぼ半泣きの顔で立ち上がった美緒と順路を進む。 「そういうこと、言う人なんですね?」 「言う人なんです。おイヤでも、手遅れ」  寒いから少しだけと海まで行って、美緒が大ぶりのバッグから取り出したものを見て、龍太郎は笑い、美緒は膨れた。 「レストハウスが混んでると困ると思ってっ! なんでそんなに笑うの!」 「いや、嬉しいけど。らし過ぎて」  アルミホイルに包まれたおにぎりが、無造作にレジ袋にごろごろと入っている。とりあえずウェットティッシュは一緒だが、それのみである。本当は絵にかいたような弁当を作ろうかと思ったのだが、それを開ける時の自分を想像しただけで、転げ回りたくなるほど美緒は恥ずかしかったのだ。それでも、いつも自分より先に財布を出してしまう龍太郎に申し訳なくて、必死に考えた「一番恥ずかしくないもの」だった。  そうか。龍君から見たあたしって、こんな感じなのか。 「ありがとう」  膨れながら声に向き直ると、照れたような笑顔があった。 「昼飯に気を遣ってくれたんでしょ? 嬉しいよ」  財布を出すたびに美緒は「払う」と強弁する。暮れのボーナスはまだ残っているし、年下でしかも一般職の美緒よりは、所得は多いはずだ。アパートを借りている分、物要りは物要りだが。それでも「金を使わせている」と気にして昼食を用意しようとする美緒は、龍太郎にとって「紛れもなく女の子らしい女の子」だ。  おにぎりのアルミホイルを毟って口に運ぶ。  なんか、すげえ嬉しい。どうしようってくらい嬉しい。  隣でペットボトルのお茶を口に運ぶ美緒を見る。冷たい風に煽られて、目を細めている。靡く髪、スカートの裾を押さえる手、そんなものに目を奪われる。食べ終えてアルミホイルをくしゃりと潰し、礼を言う。 「旨かった。ご馳走様」  ほっとしたような笑顔が戻った。  頬に触りたい、と意識したわけではない。気がついたら手が伸びていた、というのが正しい。そして、龍太郎の指が顔に向かって伸びるのに気がついた美緒は―――大きく身体を反らせて避けた。 「何ですかっ!」  悲鳴のような声が、やけにおかしい。 「何も逃げなくても」 「いきなりこんなところで顔触ろうとしたら、誰だって逃げます!」 「見てる人なんていないのに」 「そういう問題じゃありません!」  あまりに不慣れな対応に、吹き出した龍太郎は膝を抱えた。 「美緒ちゃん」 「はい」 「逃げられるのは今のうちだけ」  ちょっと待って! 今のはどういう意味?  パニックに陥った美緒に笑いかけてから、「観覧車に行ってみる?」と龍太郎は立ち上がった。  寒い時期の観覧車は空いていた。当然向かい合わせに座るものと思っていた龍太郎が、隣に腰掛けたので驚きはしたが、「同じ景色を見よう」と言われて納得もした。  ここで、予備知識として解説をしておくと、葛西臨海公園の観覧車は、一周十七分、周囲に高い建物はなく、水平から水平までのおよそ七分間、他人の目にまったく触れないのだ。もちろん、美緒は知らずに希望を述べたに過ぎない。  密室で横に座ってると緊張するんですけど!  意識が龍太郎に向く分量だけ、美緒は窓の外を夢中になって眺めるフリをしていた。窓の外なんか見えちゃいないのである。龍太郎の顔を見られないだけだ。 「あ、ずいぶん高くまで来た」  そう言った時に、髪に指がかかった。 「美緒ちゃん、こっち向いて」  視線が絡まないよう注意して、顔だけそちらを向ける。 「下向かない、こっち」 「龍君、外見ないの?」 「ここなら、逃げられない。さっき、逃げられるのは今のうちだけって言ったでしょ?」  ますます顔があげられない。  仕方がないので、頤に指をかけて顔をあげさせる。真っ赤な顔に涙目。この顔にやられちゃったんだよな。 「採用通知、もらったから」  顔を寄せると、思ったよりも素直に美緒は龍太郎の動きに従った。触れるだけのやさしいキスをして、頭を引き寄せ、耳の熱さを頬で確認する。見えていない顔は、きっとますます上気しているに違いない。  もう一回、もう少し。  二度目のキスは、やはり触れるだけだと思っていたのだ。美緒の予測外なことに、触れた唇は角度を変えて、そのまま合わされた。驚いて思わず首を引く。  ちょっとちょっと! あたし、この後どんな顔したらいいの!  髪の間に差し込まれていた龍太郎の指は、そのまま肩に滑り降りてきてそこに止まった。力を篭められるままに、美緒の肩が傾ぐ。外の景色を見るどころではない。  やがて観覧車は下降し、龍太郎に手を引かれた美緒は、下を向いたまま公園の中を歩き始めた。  上野駅のホームで別れ、美緒は電車の中で脱力した。自分の指で唇を辿る。自分の目を覗き込んだ龍太郎の顔を思い出す。そして、繋いだ手を振り解こうとした時の、意外な力の強さ。おにぎりを出した時の笑い顔。  どうしよう。あたし、さっきから龍君のことばっかり考えてる。  泣きたいような気分なのだが、何故泣きたいのかはわからない。  山手線の座席に腰掛け、龍太郎は軽く目を閉じた。良い一日だったと思う。触れたのは唇だけなのに、それ以上を手に入れた気分になるのは何故だろう?  ワクワクする。どんどん近くなってく。  目を閉じたまま緩みそうになる頬をこらえ、頭を抱えた時の耳の温度を思い出す。あの耳にキスしたら、どんな顔するんだろう。悲鳴を上げて逃げるかな?
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