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evolving relation
〈今、仕事があがった。これからフジとそこに行くから〉
美緒が鈴森とお喋りしていたコーヒーショップに現れたのは、龍太郎と藤原だ。連れ立って居酒屋に場所を移し、落ち着いたところで後ろから声がした。
「藤原、篠田、ここ空いてるからこっちに来いよ」
龍太郎が振り向くと、何人かの同僚が座っている。三浦込みである。
「いや、今日は社外の子が一緒にいるから」
「えー? 篠田君の彼女、紹介してぇ。可愛いんでしょー?」
これは三浦の声だ。美緒が委縮するのが、鈴森に見えた。
「ちょっと失礼」と言いながら、美緒を化粧室に引っ張っていく。
「何、怖がってんのよ! 松坊らしくないっ! 彼氏の知り合いと飲むくらい、できないの?」
「だって、あたしって龍君と似合わない気が」
「バカ」
鈴森は呆れた口調で美緒の言葉を遮った。
「見た目だけ似合いでも、中身が似合いじゃなきゃしょーがないでしょうが。篠田さんに失礼だよ、そんなの」
「龍君より背、高いし、女の子っぽくもないし」
鈴森は盛大に溜息をついた。
「あのね、あんたは充分かわいいから。だから篠田さんがせっせと誘ったんでしょうが。どうも、そっち系の話だけイキオイがないね。らしくないよ、そんなの」
だって、そう言った本人がそこにいるんだもん。さすがに、それを言うことはできない。
結局、席は移っていなかった。入れ替わり立ち代わり「篠田のカノジョ」を覗きに来る人はいたが、概ね楽しそうに一言二言言葉を残して去ってゆく。それに卒なく言葉を返すくらいは、美緒にだってできる。藤原が手洗いに立つまで、その席は平和だった。
タイミングは確かに偶然だったのだろう。三浦が化粧室から出てきた時に、藤原の席が空いていたのだから。
「あら、篠田君ったら女の子独り占めにしてぇ。私も入っちゃおうかしら」
そう言いながら龍太郎の隣に腰掛けた三浦は、やにわに美緒に話しかけた。
「篠田君がお世話になってますぅ。 彼とつきあうのって、どんなにかわいい子だろうって楽しみにしてたんですよ」
観察するような視線に耐えられず、美緒がスカートを握りしめようとした瞬間、龍太郎の声が入った。
「かわいいでしょう。誰にもやらないもん」
「あ、惚気てぇ。篠田君ってこういうタイプが好みだったんだぁ」
「そ、ジャストタイプ。趣味いいだろ」
戻ってきた藤原が、横に立ちニヤニヤしている。
「俺、マルチーズとかヨークシャーテリアより、柴犬の方が好きだもん」
「あたし、柴犬?」
顔をあげた美緒に、鈴森と藤原が同時に吹き出す。
「確かに、リボンつけたり服着たりしてる室内犬じゃないわ、松坊」
「三浦は猫かな、ヒマラヤンかなんか」
「俺、犬派」
不機嫌な顔になって席を立った三浦の後姿を、まだニヤニヤしながら藤原が見送る。
「篠ちゃん、策士」
「人聞きの悪いこと言うな」
「気をつけて帰って。帰宅したら報告」
龍太郎と藤原が改札で手を振った後、鈴森は美緒の顔をしみじみと眺めながら言い放った。
「俺の女感、満載」
「何?」
「あの小さい彼女、篠田さんに気があったでしょ。多分イヤミのひとつも言おうと思って来たんだよ。がっちり跳ね除けてたけど。で、男が覗きに来た時は、わざわざ呼び捨てで牽制」
確かに、何回か呼び捨てられたような気はする。
「挙句の果てに、顔確認して『帰宅したら報告』ってもう、何? って感じ」
顔の前で手をひらひらさせる鈴森に、思わず赤くなる。
「あたし、鈍い?」
何を今更、と笑われ、美緒はひそかに落ち込んだ。そうか、鈍いのか。
その頃、龍太郎と藤原は同僚の集団に捕獲されていた。
「あれ、三浦は?」
普段、何が何でも最後まで残っている三浦がいない。
「なんかすっごい勢いで酔っ払っててー。今、タクシーに押し込んだとこ。犬がどうとかって荒れちゃって」
藤原と顔を見合わせる。三浦は多分、来週には龍太郎に近付かなくなるだろう。
「ちょっと悪かったかな?」
「しょーがないでしょ、篠ちゃんにその気がないんだから」
そろそろ帰る、と龍太郎が腰を浮かしたところでスマートフォンが震えた。
〈無事帰宅しました。鈴森も家に到着。おやすみなさい〉
返信して顔をあげると、こちらを見ている顔がある。
「しあわせそー。充実したセックスしてるヤツはいいなー、俺もカノジョ欲しー」
……まだ、してないって。見通しも立ってませんて。そうは返事できないので、曖昧に笑って返す。
「俺、女じゃなくても篠田が相手なら、いけるかも」
「あ、俺も。入社したばっかりの時、ボーイッシュで好み、とか思ったら男でがっかりした」
「……まとめて、殺すっ!」
酒の席でのお約束になりつつある会話は、いちいち記憶していると翌日以降の社会生活に支障をきたす。
バレンタインが近い。
「チョコレートはいらない、メシ作って」
龍太郎の希望によりエコバッグを提げた美緒が、緊張した面持ちで上板橋の駅の改札に立ったのは、その週末のことだった。
美緒ちゃん、それ、遠目に見ても挙動不審だから! そんなに緊張しなくたって、いきなり何かしようなんて考えてないから!
笑いそうになりながら待ち合わせに現れた龍太郎は、「まずスーパーだね」と美緒の手をとった。
「あ、思ったよりも綺麗……かも知れない」
美緒が見回した龍太郎の部屋の感想は、そんなものだ。実際は普段床に落ちているものを、昨晩押し入れに丸めて押し込んだに過ぎない。現在、六畳プラス台所(キッチンなんて呼べるものじゃない)のアパートの部屋の中に見えているのはパイプベッドとふたり用炬燵、ハンガーラック及び本棚兼のカラーボックスの上に置かれた小さなテレビだ。台所には小さな冷蔵庫と小さな食器棚がある。台所と並行して、ユニットバスがある。洗濯機置き場が玄関に入って靴箱の横にあるのは、スペースの問題だろうが違和感が大きい。
意外なほど、と言っては失礼だが、美緒は意外なほど手際良く料理をした。三畳の台所や小型のシンクや、龍太郎の手持ちの調理器具に文句を言いながら、慣れた包丁さばきだ。
「見縊ってた。料理できないかと思って」
「味の保証はしないよ? 自分の家以外でお料理するのなんて、はじめてだから。龍君自炊しないの?」
「たまに。カレー三日間食べ続けるとか、スパゲティー茹でてケチャップで炒めるとか」
「外食ばっかりしてると大きくなれないよ」
「どうせこれ以上、大きくならない」
美緒の顔に「失言」と大きく書かれたのを見て、龍太郎は頭を掻いた。
「ごめん、別に気にしてないから。しょーもないこと言った俺が悪い」
あたしが無神経なんだ、と美緒は思う。龍君が気にしているのは知っているのに、なんでそれくらいの気が遣えないんだろう。
「美緒ちゃん」
呼ばれて振り向くと、頬に軽いキスが来た。
「何作ってくれんの? すっげー楽しみ。期待しちゃおっと」
逆に気を遣ってもらってるんだ、無駄にしちゃいけない。
「レンコンのきんぴら、ナスの煮びたし、ほうれん草のあんかけ、豚汁。あと、お魚の煮付け」
ふと食器棚に目を留める。
「食器、ずいぶんかわいいね」
やべ。確かに勘はいいや。
食器は、モトカノが揃えたものである。女の子好みのファンシーな水玉がすべて二揃い、ただし茶碗は同じ大きさ。
「姉貴と一緒に住んでたことがあるからね」
ギリギリで嘘じゃない。たとえ五年前のことであっても。ふうん、と納得した美緒に心の中で安堵する。他に何かないか、大急ぎで頭の中を確認する。大丈夫だ、あとは消耗品しかなかった筈。
味見、と言いながら、フライパンの中のレンコンを摘む。心配そうに窺う顔に、口移しで味見させてやろうかと考えてから、火と包丁がある場所だと思い返して止しておく。闇雲にウロウロして怒られる。
「邪魔!何もしないんなら、テレビでも見てて!」
若い女が彼氏の家で整えるにしては、ずいぶんと所帯臭いメニューが炬燵の上に並んだ。
「なんか時間が半端だね、夕飯にはちょっと早すぎるかも」
まだ夕方の五時だ。
「いいよ。美緒ちゃんも帰らなくちゃならないし、冷めないうちにいただく」
箸を口に運ぶ龍太郎を、真剣な顔で見つめる美緒がかわいい。
「旨い。きんぴら、次からもう少し辛くしてくれる?」
ほっとした顔になり、美緒も箸をとる。
「及第? 次は龍君の番だもん。期待して待ってる」
あ、また部屋に来るって言った。次回の約束が嬉しい。
「カレーだけどね」
洗い物を片付けても、七時にもならない。配信のビデオを一緒に観る。とうもろこし畑をくりぬいて野球場にするその映画は、美緒は鑑賞したことがないものだった。だから、マグカップに伸ばした手をそのまま忘れて、画面に見入っているところを申し訳ない、とは思ったのだが。
肩に手を掛けると、美緒はテレビに目を向けたまま硬直した。炬燵の脚が邪魔だ。同じ面に移動すると、とても窮屈になった。
「龍君、狭い」
文句を言う声まで硬直している。肩に置いた手に少しだけ力を入れて、顔を寄せた。
息! どうしたらいいの!
苦しくて、龍太郎のシャツの胸の辺りを握り締めた。首と背をホールドされ動くこともできない美緒は、合わせた唇を内側からなぞる舌に、呼吸ができない。もう限界だと思った時、緩められた唇の間から吸い込んだ息は普段の呼吸と違う音階で、龍太郎のシャツを握る手にますます力が入る。
こんなキス、知らない。
舌は探るように深くなり、背に回った手が巻きついた後、唐突に離れた。
「びっくりした?」
呼吸が整うのを待ちながら、龍太郎は美緒の頭を自分の肩に引き寄せた。多分、今、涙目。
「これ以上すると、ストップが効かなくなっちゃうから、今日はここまで」
ぎょっとした気配があり、腕の中がたじろぐ。
「伸びちゃう」
「え?」
「そんなに掴んでたら、カットソーが伸びちゃう。俺の服、全部ネットで取り寄せなんだからね」
自分の手が力いっぱい握りしめていたものに気がつき、美緒は慌てて手を離した。視線を落すと、龍太郎の胸から下にかけて、思い切り良く掴んで引っ張った皺がある。ケンカで胸倉を掴まれたようでもある。
「……伸びた。ごめんなさい」
顔を見返す勇気はなく、美緒はそのまま龍太郎の肩に額を当てていた。
「次から、引っ張れないように脱ごうか?」
声にならない悲鳴を上げて美緒が飛び退くのを見て、龍太郎はこらえきれずに吹き出した。
あっという間に時間はすぎて、九時近くになる。「駅まで送るから」と龍太郎はMA-1に袖を通す。
もう一回、キスが欲しい。
皺だらけになった龍太郎のカットソーを見ながら、美緒もコートを羽織る。そんなことを頭に思い浮かべる自分と、それを恥ずかしいと非難する自分がいて、どちらにしろ口になんか出せっこない。床からバッグを拾い上げると、龍太郎が驚くほど近くにいた。ボタンを留めていないコートのウエストから腕が入る。
息継ぎに余裕ができた。美緒の手はそろそろと龍太郎の背に回り、気がつくと指に力が入っている。
「こんなことしてると、キリないね。土曜日はバスの本数、少ないんでしょ?」
駅まで手を繋いで送ってもらい、改札で手を振る。空いた電車の座席に座った美緒は、目を閉じて一日を反芻する。そして、唐突に気がつく。
……なんか、すっごく慣れていたような気がする。
やっぱり今まで考えたことはなかったのだが、龍太郎はその経験があるのだということに思い至る。今まで恋愛をしたことのない人だと思っていたわけではなく、ただ結びついていなかっただけだ。そして、聞いた時にはピンと来なかった「ストップが効かなくなる」は、何に係った言葉か。つまり、あのキスっていうのは。
きゃーっ!
顔色が弾けたところで、電車は乗り換え駅に停まった。
ああっ! あたしって本当に鈍い!
胸の部分が握られた形になったカットソーを見下ろしながら、スウェットに穿き替えた龍太郎は、冷蔵庫からビールを取り出した。
ぜんっぜん物慣れてなくて、だけど一生懸命で。
洗ったまま伏せてある鍋を見る。目玉焼き用のフライパンとアルミの鍋で、あれだけの料理ができるものかと妙に感心する。胃袋でも、結構掴まれちゃったかも。普段の動きだけを考えれば手際の良さに頷くこともできるし、実際骨惜しみしない性質だろう。おそらく仕事も早いんだろうな、と予測はつく。すべて引き受けてしまうあぶなっかしさと紙一重だが。
ゆっくり大切になっていくといい。焦って台無しにはしたくない。
ビールを口に運びながら、テレビをザッピングする。抱きしめた時、良い匂いがしたのを思い出した。充分女の子らしくて、かわいいじゃないか。
何をしたら、もっと笑う? 何をしたら、揺るぎなく俺のものになる?
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