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meaning of inferiority complex
美緒が龍太郎の部屋に入るのも三回を数え、キスの最中の息継ぎに慣れてからの話だ。(注)好事魔多し)
地下鉄の階段に見えた時に、テンポが違うとは思った。だから龍太郎は階段の上で、美緒を待っていた。
「龍君、おはよ」
「具合でも悪いの?」
「悪くないよ? 昨日古い書類処分してたら、今日はちょっと腰の調子が悪くて」
えへへ、と美緒は笑った。
「重いもん持ったんだろ。なんで手伝ってもらわないの?」
「みんな、それぞれ仕事があるもん。自分の力でできることに手を貸してって言うのも」
「美緒ちゃんがフルパワーでやらなくちゃならないことでも、男の力なら『ちょっと重い』でできちゃうんだよ? 腰痛めてまで、そんなことしない」
美緒の頬がぷくっと膨れたので、つついてやろうかと手を伸ばしかけた時、後ろから藤原が真ん中に割り込んだ。
「はい、篠ちゃんも松山さんも朝からイチャイチャしたら犯罪。松山さん、篠ちゃんは俺のものよ?」
「いつから?」
「入社研修の時に、押し倒されてくれたじゃないの」
確かに蹲った相手に蹴りを入れようとした時に、上から押さえつけられた記憶はある。
「……古いこと思い出させんなバカ」
実は、マジで痛いのだ。無理をしなければ良かったな、とは思う。書類箱を棚に上げた時、確かに違和感を感じた。腰に負担をかけないように、美緒はそろりそろりと着替えて仕事をはじめた。
今日、仕事が終わったら整体にでも行ってこよう。
キーボード操作をしていても、座っている態勢がきつい。かと言って立ったままでも痛い。同じ部内の事務に、お茶汲みだけは変わってもらった。
「松山さん、見積りお願い」
課長の席から声がかかり、立ち上がろうとした瞬間だった。ぐき。顔が歪んだ。
どうしよう。姿勢が戻せない! 机を伝い歩いて課長の席まで行く。資料を受け取った時は息も絶え絶えだ。
「どうした?歩けないのか?」
「いや、なんか腰やっちゃったみたいで。大丈夫です、帰りに病院に行くし」
「それまで持たないだろう。おい、誰か車出してやれ。松山を整形外科まで連れて行け」
大木がキーフックから営業車の鍵を外し、女子社員がロッカーから美緒のバッグとコートを持ってくる。財布をデスクの引き出しからバッグに入れ、大木の首に腕を回して、美緒はエレベーターに向かった。
幸いなことに、大木の営業車は地下の駐車場に入っていた。
「ごめん。仕事中なのに」
「他ならぬ松山さんのためですから。午前中の納品、ちょうどないしね」
大木の首にぶら下がったままの移動である。ひとりで歩くのは、あまりに辛すぎる。
「松山さん、胸がないから抱きついてても違和感ないし」
「セクハラ! ……声張っただけで痛い……」
ヘルメットと営業鞄を持った龍太郎が作業着姿で駐車場に降りた時、絡まりながら歩く男女がいた。なんだあれ? と、そちらに目をやると、男の方は見たことのある顔だ。首にぶら下がった女の腰を支えながら歩いているらしい。
病人でも出たのか? 顔を確認して、ぎょっとする。自分の彼女だ。
「美緒ちゃん!」
「あ、龍君。腰、やっちゃった……病院行って来る」
自分の彼女は他の男の首にぶら下がったまま、世にも情けない顔をした。
はっきり言って、この体勢は心穏やかじゃない。相手の男は自分の彼女の腰を支えながら、「松山さんにお世話になってます」とか言うのだ。
「肩、変わりましょうか?」
龍太郎が大木に申し出ると、大木は龍太郎を見下ろした形で返事した。
「失礼だけど、無理でしょう? 自力で立ってられないんだから、上から支えてないと」
瞬間、頭に血が上るのをこらえる。痛いのは、美緒なのだ。そして、大木の言うことは尤もなのだ。
「すみません。よろしくお願いします」
頭を下げて、自分の営業車に向かう。振り向くと、美緒と大木がノロノロと駐車場の中を進むのが見えた。
ちくしょうっ!
「松山さんの彼氏、すごい顔してたね」
後ろの座席に美緒を押し込んだ後、バックミラーを調整しながら大木は言った。腰に負担がかからない形をもぞもぞと探りながら、美緒が聞き返す。
「なんでって、自分の彼女が自分の目の前で他の男に抱きついてたら、面白くないでしょうが。なんか俺、松山さんの彼氏に悪いことしたかも。謝っといて」
「いや、悪いのはあたしだし、大木君は不可抗力……いてて」
「痛がり方まで、色気ない」
「うるさいっ!……いて。声出すと、余計痛い」
「俺は松山さんの彼氏に同情する」
整形外科の受付まで大木に肩を借りて別れ、痛み止めを処方された美緒はよろけながら帰宅した。手を付きながら階段を上ってベッドで丸くなる。龍太郎へ明日は安静、と診断結果を連絡した時には、大木に言われた「すごい顔してた」はすっかり頭から抜け落ちていた。
龍太郎からの返信は、「無理しないで治しなさい」だった。スマートフォンの液晶に顔を表示するわけではないし、声の調子もわからない。だから、頭から抜け落ちてしまった事柄に、龍太郎がどんな顔をしているかなんて、美緒は想像もつかない。
どちらにしろ、想像はつかないかも知れない。龍太郎は嫉妬に苦しんでいたのではないのだから。
失礼だけど、無理でしょう?
はい、そうです。その通りです。女の子が目の前で具合を悪くしてても、俺は運んでやることができません。背負うという行為はできるかも知れませんが、背ではなく首にでも乗せないと、引き摺る形になります。でも、それは俺が望んだことですか?
身体が小さい分、他で挽回するしかないと思っていた。負けを認めるのはキライだから、自分が勝てない土俵では、他の何かができるとアピールしてきたつもりだ。
ああして、できないことを見せつけられるんだ。身長基準でジエータイやケーサツに入れないのと同じように。
「あれ、もう大丈夫なの?」
「うん、痛み止め貰ってるし、昨日動かさなかったら、ずいぶん楽」
「気をつけてね。大変なことは手伝って欲しいって言っても、誰にも責められたりしないんだから」
通勤時に手を繋いだりはしない。並んで歩いているだけだし、どちらかの会社の人間が混ざって、途中で離れることも多い。
龍君、なんか変。あたしの顔を見てくれない。
「今日も早く帰りなさいね、腰痛は後引くから」
はーい、と小学生のような返事をしてから、美緒はもう一度龍太郎の横顔を覗き見た。やはり前を向いたままで、美緒の方を見ない。
何か、怒らせるようなこと、した?
夜にメッセージを数通やりとりして、龍太郎は炬燵に足を入れたまま、目を閉じた。
彼はね、包んでもらってるって実感できる人なの。龍太郎君にはやさしくしてもらったけど、私は心だけじゃなくて、実際に蹴ってもビクともしない人が好きになったの。だから、ごめんね。
美緒もいつか、そう言い出すかもしれない。彼女はおそらく、他の男を知らないんだから。俺じゃない相手がいるんだって自覚したときに、他の相手がたやすく差し出せるものを、俺は持っていないのだと気がつく。
その時に、何が言える?
〈風邪気味だから、明日は家で寝てます〉
土曜出勤の現場が終わったあと美緒に送ったメッセージは、半分くらい嘘だ。今、笑えないから。開き直った筈のことで、こんなに落ち込んだの久しぶりだから。
暖かくして寝ているようにと返信が入ったのを確認して、スマートフォンの電源を落とした。ごめんね、と思う。情けねえな、と思う。深く溜息をつく。
大丈夫、来週には復活するから。
「おはよう。風邪、ひどくならなくて良かったね」
「一日中寝てたから。今週はちょっと忙しいから、休めないしね」
メッセでも電話でも、そんなに変わってないのに。何か変だよ、龍君。
「今週、定時上がりできる日、あるかな」
「ちょっとわかんない。そういう日はちゃんと連絡するから」
あたし、何かした?
仕事帰りに鈴森とお茶を飲みながら、美緒は「龍君がね……」と切り出した。状態だけを聞いていた鈴森は、ひどく不審げな顔をする。
「飽きた……わけないか。まだ、なんにもしてないんでしょ? それとも、頑強に拒んでるとか」
「なんにもって、何を!」
「したの?」
「してない」
いつからだっけ? と思い返して、思い当たった。
「腰をやっちゃった日からだ。あの時駐車場で会ったけど、その後一緒に出てない」
「あれ、寄りかかってっていうより、抱きついて歩いてなかった? それ見られたの?」
「じゃないと動けなかったんだもん! ちゃんと龍君にもそう言ったし!」
鈴森は額に手を当てた。
「嫉妬は理屈じゃないのよ、松坊。しみじみ篠田さんが気の毒だわ……でも、放っとくとこじれるよ。現に篠田さんの様子がおかしいんでしょ?こじれっぱなしに、ならなければいいけどね」
翌日の朝、駅からの道で美緒に声をかけたのは、大木だった。
「松山さん、今日は彼氏と一緒じゃないの?」
「今日は現場直行なの。最近、ちょっと忙しいみたい」
「昨日駐車場で会ったよ、六時頃。丁寧にお礼言ってもらっちゃって。見た目がああなのにオトナだね、あの人。俺なら、自分の彼女が抱きついてた男になんて挨拶しないね、緊急事態でも」
美緒は驚いて、大木の顔を見上げた。
「そんなもの?」
「そんなもんだよ、男って嫉妬深いし。それに俺、あんたの身長じゃ無理だ、くらいのこと言っちゃったしね」
そんなこと言ってたっけ? 美緒は急いで記憶を探る。言ってた。そうだ、自分の腰に気をとられてて、すっかり忘れてた。
「何? フォローしてないの? あの時、すげえ顔してたのに」
してない。ってか、きれいさっぱり抜けてた。だって非常事態だったし、その後のメッセ、普通だったし。
「あんまり迂闊だと、逃げられるよ。ただでさえ性的魅力に欠けるんだから」
「余計なお世話!」
大木に言葉を返しながら、美緒は龍太郎の横顔を思い出していた。
もしかして、怒ってる? あたしが、鈍いから。
美緒が昼休みに龍太郎に送ったメッセージに既読はつかなかった。別に、怒っていたわけではない。それどころか、現場打ち合わせの際に「篠田さんが担当で助かったよ」なんて言われて、回復に向かった龍太郎は、週末の予定なんか考えていたのだ。メッセージを受け取らなかったのは何のことはない、私的なスマートフォンを家に忘れてきたからだ。作業用防寒ジャンパーのポケットが普段のコートと違うので、内ポケットに入れたつもりで忘れた。早あがりができれば美緒の会社を直接覗けばいいや、それくらいの気分だった。もちろん、頭が一杯になってしまっている美緒のことなんて、知らない。
夕方まで既読がつかない。定時過ぎに電話しても、出ない。美緒は、泣きたくなっていた。悪い予想ばかり膨らみ、連絡が取れないことで妄想に拍車がかかり、私服に着替える頃には「龍君は怒っているから電話に出てくれないんだ」と、頭に完全に刷り込んでしまっていた。
あたしが気を遣えないから、龍君は怒ってる。
ここで誰かに聞いてもらえば、「急にそんなことになる筈がない」と否定してくれるだろうが、美緒は行動が早いのである。
最初、本館の五階に顔を出そうかと思った。しかし、現場から直帰の率も高く、受付で呼び出してもらう勇気はない。
家の前で待ってよう。怒ってるんなら謝らなくちゃ。
美緒が龍太郎のアパートの前に立ったのは午後七時、まだ部屋に灯りは点いていなかった。
ちょっと早い時間かも。
スマートフォンを呼んでみる。当然、出ない。電車の中かも知れないと思い返し、駅に戻って改札で待ってみる。しばらく待っていると、どこかですれ違ったのかも知れない気になって、アパートに戻る。その合間にスマートフォンも呼んでみる。それを何度か繰り返した。
なんで、電話に出てくれないの? あたしの声なんか聞くのもイヤ?
完全に妄想に支配されてしまっても、誰もそれを知らないのだから、止めてくれる人はいない。美緒の頭の中にはとんでもない結末が構築されつつあり、パニック寸前で龍太郎のアパートの外階段に座り込んだ。一時間半が経過したところだ。
一方、コンビニで夕食を買いこんだ龍太郎である。自前のスマートフォンは家なので、電車の中の暇つぶしに駅で貰ったフリーペーパーの「お出かけ情報」を、家で検索してみようと足取り軽く帰ってきた。
どこかで見たような。アパートの外階段に蹲っているコートに見覚えがある。
「美緒ちゃん? どうしたの?」
顔をあげた美緒は、泣きだす寸前の顔だった。
「ごめんなさい! 怒んないで!」
「はい? 何のこと?」
冷えてしまった美緒を炬燵に入れ、インスタントコーヒーのマグを差し出す。
「何も怒ってないよ? どうしたの、急に」
「だって、龍君先週からずっと変だったし、今日も電話に出てくれないし」
「電話、家に忘れたんだ」
美緒は驚いた顔をした後、急に天板に額をつけた。
「良かったー……あたし、龍君が何か怒ってるんだと思って。あたしが何かしたのかと思って」
俺が俺の感情で手一杯になっている時に、この子はそれを自分の不首尾だと思っていたのか。
「ごめん。ちょっと落ち込んでただけ」
「何かあったの?」
返事の変わりに肩を引き寄せると、また緊張する気配が伝わる。
「もっと力抜いてくれればいいのに。俺、怖い?」
そのまま抱き寄せると、まだ冷えている肩が大きく深呼吸した。
「怖いんじゃなくてね、ドキドキする」
「この間、男の首に腕を回してたじゃない。あれは平気なの?」
ぱっと身体を離した美緒は、不思議そうな顔で龍太郎を見た。
「だって、あれは大木君だよ? ドキドキなんかするわけないじゃない。杖とか歩行器にドキドキする人はいないでしょ?」
「へ?」
間抜けな声が出た。
「男らしくて頼りになるとか」
「何で? 大きくて筋肉質な人って、男らしいの? スポーツ選手なんて女の人でも、ほとんどあたしより大きくて筋肉質だけど」
なんか、手応えがヘン。
「俺、チビだしさ、好きな女の子が具合悪くても運んでやれないし。情けねえって」
「落ち込んでたのって、そのことだったの?」
炬燵の同じ面に窮屈に座りながら、美緒は自分から龍太郎の手を握った。
「ごめんね。あたしが不用心だっただけなのに」
「じゃなくってさ、男としてって言うか」
「あたしのお父さんも、お母さんのことなんて運べないよ?」
「へ?」
また、間抜けな声が出る。
「あたしのお父さん、胃が悪いからすっごく痩せてるの。お母さんが寄り掛かったら、多分転ぶ。だからって、頼りなくないもん」
大真面目に主張する美緒の顔を見る。慰めやいたわりではなく、本当にそう思っていることを発見する。笑いがこみ上げてくる。
この子は今、すごい破壊力のある事柄を口に出したって理解してるんだろうか。
まったくこの子は、俺のコンプレックスなんて、なかったものにしちゃう。
握られた手を逆に掴みなおし強く引いてから、びっくりした顔にキスをする。頬、目蓋、唇、とキスが続き、少しずつ逃げようとする顔を追っているうちに、美緒の背は床に着いた。
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