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we"ll see about that
キスが深い。もう、後ろには逃げられない。背にまわす必要がなくなった龍太郎の腕が、美緒の顔の横に置かれている。時折、やさしい手が髪を撫でる。今までのキスと違う。やだ、怖い。でも。
でも、もっと触れて欲しい。
息継ぎのたびに乱れてくる呼吸が苦しくて、美緒は龍太郎の肩にしがみついた。やっとはずされた唇は、次に頬に触れて耳の下に落ちた。息遣いを耳元に感じる。
乱れた呼吸に混ざる自分の声に驚いて、美緒は自分の指で自分の口を塞いだ。そうしている間に、龍太郎の指がニット越しに胸を確認していく。
熱くなった頬を確認して、顔を見た。赤く上気した顔がかわいくて、もっとその顔を見たいと思った。俺もドキドキする。口を塞いだ指の一本一本にキスした。俺だけが見る顔。
胸のふくらみを押さえてみる。余裕なんかない、もっとキスしたい。やべ、抑えが効かないかも。
龍太郎の指は胸からニットの裾に到着する―――ところだった。(注)だから、甘いって)
ぱち。美緒は突然目を見開いた。自分が今、薄いニットの下につけているものを、唐突に思い出したのである。
ここで美緒の名誉のために、付け加えなくてはならない。彼女は腰を痛めたばかりであり、保温の必要がある。そして、今日は龍太郎の部屋に訪れる予定はまったくなく、ましてこんな展開なんて三十分前ですら予測できていない。
あたし、腰までのババシャツ着てる! 遠赤外線保温の!
そう、彼女が着ているものは、カジュアルメーカーのヒートなんたらの薄いインナーではなく、スーパーマーケットの下着売り場で購入した、胸に伸縮レースのついたベージュの肌着であった。ジーンズの下には花柄模様のニットのオーバーパンツ、平たく言うと毛糸のパンツだ。
「ちょっちょっ! ちょっと待って! だめっ!」
時ならぬ色気レスの声を責めては、気の毒というものだ。
あれを見られるくらいなら、荒川流れて帰れって言われる方がマシ!
呆然とした龍太郎を押し退け、美緒はコートを羽織った。
「バス、まだ間に合うから! 急に来てごめん!帰る!」
慌てて靴を履いている。
「ちょっと待って、送ってくから」
「大丈夫、まだ遅い時間じゃないから!」
呆然とした顔のままの龍太郎を玄関に残して、美緒は走り出した。送ってもらったって、どんな顔ができるっていうの!
ちょっと焦っちゃったか?
龍太郎は遅い夕食を済ませた後、美緒の突然の慌てぶりを思い返した。そのまま先に進んでしまいそうな気もしていたが、別に無理強いするつもりはない。拒まれればまだ引き返せる段階ではあった。けれど、受け入れてくれる雰囲気にはなっていた筈だ。自分がそう思い込んだだけだったんだろうか?
首筋まで上気した色を思い出す。必死でしがみつく手が、背中に感触を残している。
「いや、本当はすっごくしたいんだけどね」
炬燵布団を直しながら、独り言が口をついて出た。自分だけがそう思って、実際そうなった場合の空々しさは願い下げだ。そんなことにはしたくないし、時間をかけるのは苦痛じゃない。
俺の鍵を持っているのは、あの子だから。
電車をひとつ乗り換える時に、美緒はやっと空腹に気がついた。駅の売店で買ったシリアルバーを齧りながら、電車を待つ。
よかった、龍君が怒ってたんじゃなくて。それどころか、あんなやさしい顔で――――
うっ! あたし、動転して変なことした気がする! 口の中で砕いたシリアルが、喉に詰まってむせた。咳込みながら、電車に乗る。自分のことながら、あれは著しく風情に欠ける振る舞いだったと思う。絶対、急に嫌がったように見えた。
ごめんなさい、龍君がイヤだったんじゃないんです! 怖いとは思っても、逃げたいとは思いませんでした! でも、ババシャツ!
その週の土曜日に一緒に映画を見に行っても、龍太郎と美緒は手を繋いで歩いただけだった。その次の週に待ち合わせした時も、龍太郎の部屋へ行くなんて話にはならず、建物の陰でこっそりキスしただけだ。もしくは、会社帰りのビルの緑地帯で。
次に密室でふたりきりになった時に、龍太郎は自制心に自信がなかったのである。ゆっくり時間をかけて感情を育てたい、なんてのは頭の中だけのことだと知っているから。
「そりゃまた、ずいぶんむごいことを……」
しょぼくれてるねーと誘われたコーヒーショップで、鈴森は呆れた顔をしてみせた。美緒の顔は今、羞恥心満載である。あの場合、どうしたら良かったの?
「まあ、松坊らしいっちゃ松坊らしいけどね。まー、篠田さん気の毒」
気の毒がられるようなこと、しちゃったんだ! 本当は、キスしたい。唇を触れるだけのキスじゃなくて、あの―――
「そのあと、お家に誘ってくれないんだもんー」
情けない声が出た。自分から「ふたりきりになりたい」なんて言えない。このタイミングで言ったら、「次の段階に行きたいんです」と言っているようなものだ。
次の段階っていうのは、つまり。
「まさかと思うけど、まだ?」
沈黙が答えだ。藤原の信じられん、という眼差しがウザい。
「つきあって、どれくらいになる?」
「かれこれ四ヶ月は過ぎた」
手を繋ぐだけのデートが、二ヶ月近く続いていた。もちろん一緒に出掛けたり食事したりするのは、楽しい。やっと自己主張をはじめた美緒が、どこに行きたいの何を見たいのと嬉しそうに言う。それはもうささやかに、桜まつりで甘酒を飲むことだったり、青山界隈で買いもしない骨董品を眺めるだけだったりするのだが。好きな女の子の手を握って、最近ますますかわいくなった表情を見て、隙あらばキスしちゃったりしてるのだ。楽しくないわけがない。
けれど、満足してるわけでもない。っていうか、きっぱり不満。
タイミングを外してしまったのだ、とは思う。突然逃げた美緒を怯えさせたくなくて、少し引き下がった。少し引き下がった筈が、次の一歩の踏み出しどころがわからなくなった。他の相手ならば、なし崩しのなあなあで元の位置に戻るのだが。
いかんせん、相手は美緒だ。雰囲気を読む力はない。きっかけがきっかけなだけに、部屋になんか呼ぶと「やらせろ」と言っているように見える気がする。いやだから、無理になんて言わないって。だけど、一生このまま? それは、カンベン。
「高校生か」
鈴森の思いっきり呆れた視線に耐えかねて、美緒は下を向いた。
キスしたいの、なんて相談を持ちかけたわけではない。鈴森の彼氏は確か自宅勤務の筈で、みんなどこでキスしたりベタベタしたりしてんのかな、なんて聞いたのが最初だった。
「車の中とかホテルとか? 松坊のとこ、篠田さんはひとり暮らしじゃない。場所になんて困らないでしょ」
龍太郎が部屋に入れることを躊躇している原因は、自分だということを理解はしている。美緒が怖がっていると思いこんでいることも、察しはついている。違うの! と声高には言えない。
「あの後、お部屋に行ってない……」
「あのって、ババシャツ? 冬の話じゃない。もうじき、五月になるよ? その後進展してなかったの?」
やはり、沈黙が答えだ。ただし、美緒の顔はテーブルの表面に張り付いていた。
「やっぱりあんた、八十の処女になるような気がする……」
「不吉なこと言わないで!」
すでに「あーんなことやこーんなこと」への覚悟は決まっているのだ。もっと近付けば、もっと好きになるという確信がある。にもかかわらず。
どうしろっていうの、この先!
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