be happy,Lovers!

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 確かに、それは美緒の不注意だった。営業から指示された見積の掛率が低い、と思ってはいた。確認する前に営業は外出してしまったので、とりあえず見積書を作って、後でもう一度確認しようと思い、そのまま忘れた。  その見積書を至急FAXして、と電話で指示された時に「チェックしなくても良いですか」と一度聞きなおした。 「松山さんのこと信頼してるからさ、よろしく」  もういちど、見直せば良かったのだ。普段の掛率よりも5%も低い、その数字を。  いつも通り課長の席から判を持ち出し、承認者のメクラ判をついた。そして取引先にFAXを流して、そのまま営業の席に置いた。普段の一連の流れだ。 「なんだ、この数字」  その営業の席にある見積書を目に留めた課長が、それを持ち上げた。 「あ、今FAXしたところです。出先から指示があって」 「原価で卸すって? メーカーから特価出てるのか、これ?」 「えっと、伊東さんがそうやってメモくれたんですけど」  営業から預かったメモを渡す。@マーク付きの数字の横に、小さく×3、と書いてある。見積書を作っているときには、気がつかなかった、つまり、見落としたのだ。 「3パー乗せろって書いてあるじゃないか」  美緒の顔から、血の気が引いた。  電話に向かってペコペコ頭を下げて、ついでに担当営業と課長からも侘びを入れてもらい、取引先からはぎゃあぎゃあ文句を言われてコトは収まった。そのまま通してしまっても、被害総額は十万程度だった筈だが、前例を作ると次の交渉が煩い会社だった。だから、課長の怒りは尤もでもあった。  ただセクシュアル・ハラスメントに近かったことは、よくあることと言えばよくあることでもある。 「松山さん、最近浮かれてるんじゃないの? 彼氏と一緒に出勤なんかしちゃってるっていうし、頭が花盛りなんじゃない? 早くお嫁に行けば?」  美緒の会社は、今時珍しい結婚退職推奨の会社だ。嫁に行け、即ち辞めてもらっても構わない。  課長も腹立ち紛れに口にしただけで、本気でそう言ったわけでもない。それはわかっている。わかってはいても、自分のミスでいらないトラブルを作った美緒には、痛かった。  定時はとっくに過ぎていた。ロッカールームに女子社員の姿はない。気が抜けたところで半ベソになった。  あたしがミスしたから、みんなに迷惑掛けた。  会社組織の中で部下の失敗を上司がフォローするのは当り前なのだが、他人よりも自分を動かした方が早い性質の美緒は、他人に頼るのに慣れていない。着替えながら、自信がどんどん萎んでいく。  やだ、こんなのあたしじゃない。  龍君の声が聞きたい。きっと、それで元気になる。スマートフォンを呼び出すと、すぐに龍太郎の声の応答があった。 「まだ仕事中だよ、今日は遅くなりそう。どうしたの? 声に元気がないね」  声が聞きたかっただけ、と明るく言うつもりだった。それで元気になると思っていたのに、声を聞いたら泣きたくなった。この声は、少なくともあたしを責めたりしてない。だから、もうちょっと。 「頭、撫でて。それで元気になって帰るから」  本館五階の踊り場で待ってて、と指示があって、美緒は薄暗い階段に腰掛けた。仕事の邪魔をしてしまって申し訳ないと思う一方で、こんな顔してるところを見せちゃっていいのかなとも思う。  なんでこんなに落ち込んじゃったんだろ。前に同じような叱られ方しても、自分でどうにかできたのに。  重い鉄の扉が開き、軽い足音が階段を降りて来る。 「どうしたの? 何かあった?」  仕事、中断させるような用件じゃなかったのに。 「ごめんね。ちょっと失敗して落ち込んだだけだったの」  くしゃ。階段に座ったままの美緒の髪に手が差し込まれた。くしゃくしゃくしゃ。龍太郎は黙ったまま、髪だけかき混ぜている。  忙しいとこ、そんなんでって怒ってるかな。美緒は上目でそっと表情を窺った。そして、えーと。この顔って、何? どこからどう見ても。 「龍君?」  龍太郎の顔に浮かんでいるのは、極上の笑みだった。  更に髪をかき混ぜながら、龍太郎も階段に腰掛ける。座ったついでに、フットボールのように美緒の頭を胸に抱えた。抱えられた頭がジタバタしている。美緒の髪はもう、ぐしゃぐしゃだ。  やっとのことで頭を引き抜いた美緒が膨れる。 「もうっ! ふざけてっ!」  憂鬱は見事に吹き飛んでいた。 「ふざけたわけじゃないよ」 「落ち込んでたのにっ! 仕事中だから、ちょっと顔見て帰ろうと思って」  続きの言葉よりも、龍太郎のキスの方が早かった。 「嬉しいんだもん」  美緒の問い返す視線の先には、まだ上機嫌の龍太郎の顔がある。 「落ち込んだときに俺のこと思い出して、会いたいって思ってくれるのが嬉しいんだもん」  うわ、キザ! 何赤くなってんのよ、あたし!  ひんやりした階段に並んで腰掛けたまま、龍太郎は美緒の肩を抱いていた。美緒も龍太郎の肩に頭を乗せる。この距離がいい。体温を感じる距離。 「さて、元気出た? そろそろ仕事に戻らないと」  立ち上がった龍太郎と一緒に、美緒も立ち上がる。美緒の背に一度両手をまわし、龍太郎は力を籠めた。 「このまま時間気にしないで、こうしてたいんだけどね」  賢い柴犬は、自分の安心できる場所をちゃんと知っている。やっと首輪をつけた。もう、俺が飼い主。 「うん。ごめんなさい。ありがとう」  別れ際にもう一度短いキスをして、惜しがりながら手を離す。 「龍君、好き」 「知ってる」  なんで仕事に戻れなくなるようなタイミングで、それを言うか。踊り場で上下に分かれ、鉄の扉を押した後に、龍太郎は手洗いに入った。鏡を見るためだ。席を空けた後に口紅を残して戻ったら、シャレじゃすまない。ついでに用も足して、手を洗っていたところに出先から同僚が戻ってきた。 「お、今、篠田の彼女とロビーですれ違ったよ」  あ、そう、とやり過ごす。 「なんか、すっげーかわいくなったよね。急いでたんかな、すげー早足で」 「いや、それは普段の彼女の歩き方」  かわいくなったって思ってるの、俺だけじゃないんだ。それは、面白くないぞ? 早足ってことは、いつものテンポに戻ってるんだ、良かった。 「ニヤけんなよ」 「ニヤけてねーよ」  帰宅時間を見計らって、美緒はメッセージを入れる。 〈気力回復。甘えちゃってごめんなさい〉 〈もっと甘やかしたい!〉  間髪入れずに戻ったメッセージに、絶句する。うう、対応に困る。  そういうこと、言う人なんですか?  言う人なんです。おイヤでしょうか?  いつだっけ? ずいぶん前の会話。今なら、ちゃんと答えられるのにね。リアクションに困るだけです、イヤじゃないです。ああ、そうか。あたしと龍君は、そんなやりとりが必要ない程近くに来たんだ。  きっかけを作ってくれたのは、龍君だ。あたしはいつも、作ってもらったきっかけに乗っかってただけ。そして、今も次のきっかけを作ってもらうのを待ってる。全部、龍君まかせで。  それで、いいの?  四月も終わり近く、外をそぞろ歩くには良い季節だ。公園の木の陰で、やっとベタベタできるなーなんてお互いに思っていても、それを口に出すのはちょっと……の状況で、だけど肩をつけて座っているのが嬉しい。  だあれも見てない。キスしちゃっても大丈夫。  熱心にキスしているうちに、龍太郎が足を組みはじめた理由など、美緒に知る由もないが。 「帰んないで」  耳打ちのように言われた言葉に、美緒の肩はびくっと震えた。 「困る」  やっぱりか、と内心溜息をつく龍太郎は、「無理ならいいんだ」と努めて普段の声を出した。  やばい! これ、また絶対誤解する! 龍君、きっとがっかりする!  美緒のうなじを撫でる龍太郎の指はやわらかく、それだけでも充分大切にされているのだと実感できる。自分ももっと近くに行きたいって、ちゃんと伝えたい。でもね。  あたし、男の人にこれを言ったこと、ないんだけども。体育の先生にすら言ったことないんだけども。 「……生理」  一瞬黙った龍太郎は、その後笑いだした。  ゴールデンウィークだから少し遠出しよう、そう言って早い時間に待ち合わせた。 「横浜に行って、肉まんでも食べる?」 「あたしのイメージって、それ?」  尖った唇を引っ張ってみたい衝動にかられて、龍太郎は自分の手に、いけないと言い聞かせた。 「『たぬきや』の鮪丼を食べる人」 「そればっかりじゃないっ!」 「じゃ、荷物を肩に担ぐ人」 「最近、ちゃんと手伝ってくれって言ってるもん。じゃなくって、なんかこう、もっと上品な」 「こっちがその気になってる時に生理の人」 「それってあたしのせい?」  なんとなく、含みのある言葉ではある。  結局横浜まで出て、山下公園で肉まんを食べていたりする。潮風はもう、夏の気配だ。赤レンガに行くか元町をウロウロするかと話し合い、立ち上がって海を見ていた時。  今、言わなくちゃ。勇気出せ、あたし!  隣に立つ人の俄かに緊張した気配に、龍太郎が注意を向けた。 「今日ね」 「何?」  言っ……言えない!  海に向かって唇を噛みしめ、下を向いた美緒は耳まで真っ赤だ。 「何? どうしたの?」  顔! 顔覗きこまないで! 余計に言えない! 手の平で顔を覆ってみる。熱い。  龍太郎の慌てた気配が伝わる。ごめんなさい、今言います。 「今日、友達と旅行するって言って家出てきた! だから、帰んない!」  一息に言いきって、膝を抱えて顔を隠した。美緒の横に立つ龍太郎の動きが止まっている。  ああ、やっぱりおかしなこと言った! と後悔しはじめた時、頭上から手が伸びてきた。美緒の髪を乱暴にかき混ぜている。目だけ上げてみる。手の主は海を見たまま、身体だけを傾げている。  美緒の髪が台風にでも巻き込まれたかのように乱れた後、上から声が降ってきた。 「そういうこと、言う人だったんですか?」  このフレーズへの答えは、あらかじめ提示されてる。記憶にある。 「言う人なんです。おイヤでしょうか?」  もう一度髪が乱暴にかき回された後、平手が小さく美緒の頭を打った。 「まったくっ! 俺が言うつもりだったのにっ!」  ほら立って、と肘を持って美緒を引き上げた。耳まで真っ赤な顔と涙目、この顔ははじまりの顔だ。パワフルで恋愛感情だけに疎くて、俺にとっては誰よりも女の子らしい女の子。 「赤レンガの方に行ってみようか。俺の部屋に置いとくカップ買おう」  フジのマグとか、間に合わせのカップじゃなくて、美緒専用のカップを食器棚に並べよう。気持がちょっとずつ寄り添ったみたいに、今度は生活の中にちょっとずつ美緒の色がつくといい。    手を繋いで歩きだした龍太郎と美緒を、潮風がふわりと祝福した。 fin.
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