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Encounters you
さて、翌週の土曜日のことだ。外部の会社との合同会議で「お茶汲みをするため」美緒は出勤していた。会議に出席しているわけではなく、仕事はお茶出しと茶碗洗いと資料配りである。
半日出勤つくから、良しとしよう。休みの日の事務服って、なんだかなあ。帰りにお買い物でもしてこ。
土曜日のオフィス・ビルは森閑としている。溜めこんだ仕事があるわけではなく、書類の整理で時間をやり過ごす。会議が終わって茶碗洗いを済ませると、誰もいない更衣室で着替えながら「つまんなーい」と呟いた。
帰りに誰かと待ち合わせでもしとけばよかった。
同じく土曜日の午前中、龍太郎もオフィスに居た。こちらはお茶汲みでなく、月曜日から着工する現場図面の、最終確認のためだ。前日の晩に忘れていたのを、朝起きて思い出したのだった。
危ねー。これでミスがあると、ますますバカにされる。
見た目が頼りない分行動で示さないと、現場のオジサンたちの信用は得られない。正式に休日出勤ではないので、ジーンズにMA-1の軽装だ。
土曜日にビルの正面玄関は閉まっている。守衛室の横の出入り口を使うことになっている。美緒が金属の重い扉を開けようとすると、階段から軽やかな足音が聞こえた。
「あれっ」
声をあげたのは、龍太郎が先だった。美緒は一瞬、警戒するような顔になった。
「土曜出勤? 俺もです」
気楽な口調に、ああ、と思い至る。
「私もです。今、あがったところ」
そのまま、駅への道を並んで歩いた。
「腹減らない? 昼飯に行こうよ」
どっちでもいいんだけど、のニュアンスを含めて龍太郎は美緒に話しかけた。
「それとも他の男と食事なんてすると、彼氏に怒られちゃう?」
つまり探りを入れているわけなのだが、それに気がつくには、美緒は未経験過ぎだ。
「怒る人はいませんけど。えーっと、名前も知らない人と」
「篠田龍太郎。そっちの名前も教えてくれる?」
「松山美緒です……じゃなくって」
「もう、名前も知らない人じゃないでしょ?」
すれてない子だなと思う反面、危なっかしいなと龍太郎は思う。咄嗟のきりかえしができなくて、ワケわかんないうちに俺みたいな男とメシ食うことになってる。本当は、ついて行っていいものかどうか、判断できてないんだ。
なんだか要領を得ない顔の美緒を誘導して、ガラガラのオフィス街で開いている店を探す。夜に居酒屋にシフトするような店は、土曜日は休業だ。やっと営業している店を見つけて、向い合せに座る。
「俺、海老カレー。大盛りで」
「あ、あたしも同じにしてください」
店員を呼んで、オーダーをする。
「海老カレー、大盛りでふたつ……でいいんだよね?」
龍太郎は美緒に確認して、ハイ、と頷く生真面目な顔を見て笑った。
「何か、笑われるようなことしました?」
「いや、この前『たぬきや』だったなって思っただけ」
よく覚えてるな。そんなにインパクト大? 美緒はちょっと口を尖らせた。
「改めて自己紹介するね。篠田龍太郎、二十四歳。フォレストハウス勤務」
「え? 歳上?」
龍太郎は大袈裟に肩を落とすアクションをした。
「……いいけど。いくつに見えてた?」
「ハタチくらい? 下だと思ってて」
口に出してから、失礼だったかしら? と気にする。若く見えたりするの嫌がる人、いるよね。
表情のわかりやすい子だな。美緒の顔を見ながら、龍太郎は思う。何かを口に出すたびに表情が変わる。
「ところで、松山さんはいくつ?」
「二十二です。サカイ衛材勤務。営業事務、一般職」
あ、怒ってない。良かった。美緒はそう思いながら、改めて龍太郎の顔を見直した。
程無く運ばれてきたカレーを食べながら、ポツリポツリと当たり障りのない話を繋げてゆく。音楽の話、映画の話、最近のニュース。少しずつ噛み合わず、歩み寄りの必要な会話だ。
うわ、可愛くても男の人だ! 龍太郎の迷いのないスプーンの運び方に見惚れて、美緒の手が止まった。
「どうかした?」
「食べるの、早いですね」
「あ、ごめん。俺だけ食い終わったら、気、使うよね」
どきん。美緒の心臓が大きく鼓動を打った。
もしかして、男の人とふたりで食事するの、はじめてかも。そして突然、緊張が襲ってきた。
どうしよう。飲み込めない!
「口に合わなかった?」
「いいえっ! 美味しいですっ!」
無理矢理最後まで食べて、美緒はスプーンを置いた。食べ残しはマナーに反する。
胃、おかしくなりそう。
美緒が財布をバッグから引っ張り出している間に、龍太郎はさっさと会計を済ませて店の外に出てしまった。
「払いますっ!」
「つきあってもらったんだから、いらないよ」
そんなわけには……と美緒が言いかけるよりも前に、龍太郎は歩き出した。仕方がないので、後を追って歩く。
「あ、じゃあさ、お茶奢って」
龍太郎が指差した先は、チェーンのコーヒーショップだった。
あまりに簡単に誘導できてしまうので、龍太郎にはずいぶん余裕ができる。遊びなれた女の子が、誘われたフリをしているわけではないらしい。龍太郎の目の前に座っている女の子は、改めて緊張した顔をしているのだ。
柴犬かなんか手懐けてるみたい。
「この前担いでたダンボールって、すっごく重そうだったけど」
「重かったんですよ。あのあと、首の筋がヘンで」
「エレベーター使えば良かったのに」
「階段のほうが早いと思って無精したんです。途中で後悔したけど担いだ後だったし」
「担ぐって行為自体が、女の子じゃ珍しいでしょう」
「だって、腰で支えたら階段下りられないし、肩なら大丈夫かと思って」
「そんなの、持てないからって誰かに頼めばいいのに」
「え? だってちゃんと移動できたもん。できるのにできないって言えないもん。運んどいてって言われたの、あたしだし」
美緒は口を尖らせた。
やっぱり、なんかすっごくヘン! 必死で重いものなんか持たなくても、男に頼めば苦もなく運ぶだろうに。
「松山さんひとりで運べなんて言われなかったんじゃない?」
「そう言われると、そうかも」
大真面目に頷く表情に、なんとなく性格の一端を垣間見たようで、龍太郎は吹き出した。
「何で笑うんですか」
そう言いながら美緒も吹き出し、ふたりで大笑いする。緊張はほぐれたらしい。
「SNS、繋げていい?」
「お願いします」
データを交換してコーヒーショップを出て、駅まで歩いて、違う路線の電車に乗った。
かわいい顔してるんだけど、なんだか不思議な子。
龍太郎はMA-1のポケットからスマートフォンを取り出し、電車の中でアイコンを押してページを眺めた。
見た目は頼りないけど、仕草も喋り方も、ちゃんと大人の男の人。
美緒は地下鉄の窓に映った自分の顔を眺めながら、龍太郎の細い指を思い出していた。
〈先刻は、ご馳走様でした〉
龍太郎の携帯電話スマートフォンが着信したのは、洗濯機が洗濯終了のブザーを鳴らした時だった。一週間分溜めた洗濯物は、主に下着だ。
〈こちらこそ〉
そう打ち込んだ後、ちょっと考えてから付け足した。
〈今度は、飲みに行きましょう〉
少し置いてから、返信が来る。
〈お酒、強くないんです。それでも良ければ〉
返事としては、そこはかとなく微妙である。
返信をした美緒の顔も、実は微妙だ。
「ふたりで飲みに行きましょう」なんて誘われたら、どうしよ。
イヤな訳ではない。美緒だって誘われることはあるし、露骨な下心にはパスもする。学生時代、友達に何度か男の子を紹介されたこともあった。ただ「この人が好きで、つきあってみたい」と思う相手がいなかっただけだ。だから一度お茶を飲んだだけで「つきあっちゃおうか」なんて言われたら、とてもバカにされた気がするのだが。
「つきあってみなくちゃ、好きになるかどうかわからないでしょ!」
何度友達にそう言われたことか。相手を限定してしまってから好きか嫌いか考えるなんておかしいと、美緒は頑固に考えていたりするのだ。
「えー? ご飯食べに行ったの? 次の約束とかしたー?」
月曜日の朝、鈴森に土曜日の話をした美緒は、興味津々のツッコミを受けた。
「約束はしてないけど、今度は飲みに行きましょうってメッセは来た」
「いいじゃん! 行っちゃえ! 顔いいじゃん。背、低すぎだけど」
「いやだから、背が低いのは本人の責任じゃないし。太っている人は痩せられるけど、身長は自分の意思じゃないでしょう」
「松坊が気にしないんなら、問題ない。つきあっちゃえ」
話が棒高跳び。まだちゃんと誘われてもいないのに、なんでそこまで飛躍するの?
美緒は心の中で溜息をついた。
「おっ! 篠ちゃん、どうした? きょろきょろして」
「頭に手ぇ乗せんなっ!」
「ちょうどいい高さにあるんだもーん」
「今、『殺人が罪にならなかったら殺す奴リスト』のトップ、おまえ」
「大丈夫。返り討ちにするから」
駅から会社に向かう道で、身長差約20センチのハイテンションな会話を後ろで聞いていたのは、龍太郎の「きょろきょろしている原因」だった。
挨拶、したほうがいいかな。でもなんだか楽しそうだし、声かけたら悪いかも。
スクランブル交差点の赤信号で前が立ち止まった時、美緒はやっと龍太郎に声をかけた。
「篠田さん、おはようございます。先日はどうも」
振り向いたのは龍太郎の連れ、すなわち藤原のほうが先だった。おっきい人! 美緒がそう思ったのは一瞬で、比較対象が小さいのである。
「あ、おはよう。同じビルなのに、案外と会わないね」
「あたしの会社別館だし、フロアも違うじゃないですか」
話を聞いているような聞いていないような藤原は、隣に黙って立っている。信号が青に変わると、美緒は「お先に」と歩き出した。やはり早足だ。普段からそのスピードで歩いているらしい。
「今の、誰?」
藤原に聞かれ、龍太郎は簡単に「別館の三階にある会社の子」と説明した。
「ああいう色気のないのが好み?」
「知り合い程度だし」
「どうせ知り合うんなら、タイプの女の子がいいなあ」
だから、見た目はタイプなんだってば。あの邪気のなさそうな目とか、よく笑いそうな口元とか。それを口に出して協力を仰ぐほど、学生じみてはいない。
「俺の場合、身長分ハンディだしなあ」
「そうか? 頭も小さいし、バランスいいじゃん。俺は全方向かっこいいけど」
「じゃ、その腹をどうにかしろ。おまえも今日から階段使え」
「やだ。朝から疲れる」
女と間違われるのがどれだけ屈辱かなんて、フジには絶対わからない。
誘いのメッセージを打つこともなく、二週間が過ぎた。十一月も半ばである。そろそろ作業着の上に防寒ジャンパーが必要になる。
「おはようございまーす」
「毎日、朝から元気だね」
「それじゃ、毎日何の悩みもないみたいじゃないですか」
「あるの?」
「そりゃ、ありますって! カラ元気なんですよう。じゃ、お先にー!」
相変わらず早足で歩いていく美緒は、龍太郎と一緒に出勤する気はないらしい。律儀に挨拶を寄越すので、嫌われてはいないな、と判断できるのだが。
やっぱり、積極的に誘うしかない。龍太郎は小さく気合を入れた。
美緒がロッカールームで着替えている時に、着信音が鳴った。発信者は「篠田龍太郎」だ。
〈今晩、飲みませんか〉
ランチを一緒にとった後、何回かメッセージをやりとりしたが、誘われたことはなかった。
まさか、ふたりでって意味じゃないよね。予定は何もないので、とりあえずその部分を確認する。
〈都合は悪くないです。何人で行くんですか?〉
すぐに返信が来た。
〈じゃ、もうひとり連れて行きます。詳細は後程〉
〈それでは、こちらも誰か誘ってみます〉
龍太郎が盛大にコケたのは、言うまでもない。
「篠ちゃん、朝から何がっかりしてんの」
「フジ、今晩おヒマ?」
「あら? 夜のお誘い? あたし、オークラのスイートじゃないと行かないわ」
「おまえとなんか、金もらったって行かねえ。今晩女の子と飲むんだけど」
「行く」
気持ち良いくらいの即答だ。
ガードされてんのかな、俺とふたりだけじゃイヤだとかって。
美緒にガードしている気がないことは、龍太郎には見当はつかない。
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