for the time being

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for the time being

 龍太郎が風呂から出ると、スマートフォンの着信ランプが光っていた。 〈今日はありがとうございました。楽しかったです〉  下着のまま冷蔵庫を開け、牛乳パックに直接口をつけて飲む。返信しようとスマートフォンを握りなおしたら、追加が来た。 〈なんだか緊張しちゃってて、すみませんでした。また誘ってください〉  夕食には誘わず、お茶だけ飲んで別れた。その頃にはずいぶん打ち解けた態度にはなっていたのだが、会社の近所で見るようなパワフルでよく笑いそうな表情には遠くて、可哀想になってしまったのだ。本当は、やはり気が進まないのに無理矢理出てきたんじゃないのかと思うほど、美緒の表情は硬かった。それが。  また誘っていいの?  社交辞令かも知れないが、そこは敢えて無視することにする。  だって、かわいいじゃん。何か喋るたびに、表情がくるくる変わって。 〈じゃ、次の機会を考えます。希望はありますか〉  液晶に打ち込んで、送信ボタンを押す。  よし。とりあえず、繋がった。  篠田さん、つまらなかったんじゃないかな。  今更気に病んでいるのは、美緒の方だ。気と金を使わせてしまった、という感覚だけがある。だから、「次の機会を」とメールが来た時の気分は、結構複雑だ。  あたしが篠田さんを「男の人だ」って意識しなくなるまで、どれくらいかかるんだろう。  意識しなくなるのは龍太郎の本意から外れていくことだと気がつくには、美緒はスキルが低すぎる。  会社内で男の人と話すのは、まったく平気なのに。合コンで隣に座った人にも、緊張なんかしない。一対一だってだけでのあんなの、絶対どうかしてる。  美緒が母親と並んでテレビを見ていると、スマートフォンが震えた。発信者は鈴森である。 〈どう? 上手く行ってる?〉  ヒマ人! 〈展望台に行って、お茶して帰宅。以上〉  返信すると今度は通話の方の着信音が鳴った。 「ちょっと! ごはん食べるくらい、してないの? 気に入らなかったわけ?」 「そんな話にならなかったもん。また今度って言ったし」  何で責め口調で聞かれるの? しかも、あたし、言い訳口調だし。 「中学生のデートかっ! あんた、他のことは全部テンポ早いクセにっ!」 「別に遅くない。時期が来てないだけ」 「自分で時期を遅らせてんの。今まで気がつかなかっただけで、あんたに手ぇ出したい人はいたの」  手を出される。つまり、自分の身の上に「あーんなことやこーんなこと」が起こる。それについては否定しない。否定はしないが、相手はもちろん選びたい。そして、その選ぶ方法は「相手を見る」ことだ。あれ? 「……会わないと、相手って選べないね」 「やっと気がついたか。遅すぎないから、篠田さんにしちゃえ」  話がまた棒高跳び。大体、「しちゃえ」と言われたって、向こうがそのつもりじゃなかったら、どうする。  彼氏だの彼女だのって決めてから相手を知るのって、やっぱり何かが違うのではないかな、と美緒はまた深く溜息をついた。 「おはようございます。土曜日はありがとうございました」  美緒が追い抜いた後、のんびり歩く龍太郎の頭には、毎度の手が置かれていた。 「頭に手ぇ乗せるなっ!」 「何? 土曜日に一緒に出掛けたの?」 「出掛けたには出掛けた……ただ、なんつーか微妙」 「普通じゃない鈍さだって言ってたもんねえ」  鈍いだけじゃないような気も、しないではない。 「松山さん、カタログファイル作っといてー。外科外来用、50セット」  美緒は言いつけられた仕事をこなすために、カタログ庫でカタログを集めていた。ストックがないのに気がつき、キョロキョロ探すと、スチール棚の一番上に乗っている。誰かが持ち出したらしく、手近に脚立が見当たらない。  大丈夫、誰もいない。  セミタイトの制服の裾を膝よりもかなり上に持ち上げ、棚によじ登ろうとした瞬間、ドアが開いた。 「松山さん、電話入ってます」  慌ててスカートの裾を戻す。 「ちょうど良いところに。大木君、一番上のサージカルテープのカタログ、降ろしといて」  入れ違いにカタログ庫に入った大木が、「色気ねえ……」と呟くのを聞いた。  あんたに見せる色気はないっ。  かと言って、今まで色気を見せた相手はいないのだ。 「忘年会の会費の集金でーす」  龍太郎の席に回ってきた女子社員が、名簿にチェックしながら会費を集金していく。まだ十二月は始まったばかりだ。 「二次会は独身だけでやるから、篠田君も参加ね」  にっこり笑う総務課の彼女は、小柄なのに豊かな胸の持ち主で唇の印象的な女の子なのだが、龍太郎は苦手である。研修合宿の最終日に龍太郎に「告った」のは支店の女の子ではなく、実はこの女の子だから。それは、藤原も知らない。  つきあって欲しいの。私なら、身長のつりあいも取れるでしょ?  身長のつりあいで彼女を決めたことなんて、一度もない。身長と気が合う・合わないは関係ない。だから、そう言われたことがひどく屈辱的に感じた。彼女、つまり総務の三浦は、龍太郎に「背が低いんだからストライクゾーンが狭い」と言ったようなものだ。そんなことに拘っていたら好きな女の子とデートもできないことは、学生時代に学習済なのだが、逆に「女の子は身長に拘るのだ」と念押しをされたような気になった。  そして、断わったにもかかわらず、三浦は龍太郎にちょこちょことアプローチしてくるのだ。  入社したばっかりで女の子とつきあう余裕はない、なんて言ったの、社交辞令だから!本気で好みじゃないから!  同僚という立場では、そんなに強い言葉では否定できない。距離が近くならないように気をつけるばかりだ。  龍太郎が帰り電車に乗っていると、後ろから声をかけられた。 「篠田さん、どうも。この路線だったんですね」  顔を思い切り上げると、「エア・トラッド」の津田である。現場で性別を間違えられたのは、記憶に新しい。 「あ、こんばんは。そうです、上板橋なんです。津田さんもですか」  よく見ると隣に、龍太郎から見ても更に小柄な女性が立っている。 「母ちゃんです。子供が風邪引いて、保育園で預かってもらえないから、実家に預かってもらってて。今から迎えに行くんです」  女性はぺこりと頭を下げた。共稼ぎも大変だな、と顔を見る。それにしても、身長差の激しい夫婦だ。 「篠田さん、現場の評判良いですよね」  意外な言葉を聞いた。 「頼りないとか思われてるんじゃないですか?」 「いやいや。管理がしっかりしてて、工程に余裕があるって設備屋さんが言ってますよ」  二年目にしては、結構な評価である。ガッツポーズをとりたいのを、抑える。見た目で舐められる分、他人よりも努力しないと信頼がついて来ない。業者からの信頼度を、外見のせいにしたくはない。入社後の部署が決まった時期に、文系の大学では縁のなかった設備のあれこれを、頭に叩き込んだ。  舐められてたまるか。  龍太郎の仕事の原動力は今のところ、その一言に尽きる。 「見習いなさいね」  津田の隣の女性が、津田に向かって言ったあとに、龍太郎に話しかける。 「外見がスマートで仕事ができるなんて、羨ましい。津田は詰めが甘いから」 「チビですよ?」 「背なんか高くたって嵩高いだけで、電球換える時くらいしか役に立ちません」 「厳しいですねえ」 「事実です。実際、一緒に過ごして快適な相手なら、不愉快な容姿でなければいいでしょう?」  自分が好ましいと思える女性が、そう思ってくれればいいんだけど。  津田夫妻に手を振って電車を降りた。現場の評判が良いという言葉が、やけに自分を高揚させる。スマートフォンを取り出して、SNSのアイコンにタッチした。 〈こんばんは。近いうちに夕食をどうですか〉  えーっと、夕食? 向かい合って食事する。いや、最初に会った時は確かに向い合せで食事した。だけどあれは、成り行きっていうか。美緒が携帯を覗き込んでジタバタし始めたところに、鈴森が顔を見せた。 「松坊、そろそろ残業終わる? ……って何赤い顔してんの」 「えっと夕食! じゃなくって! 残業、終わる! 待っててっ!」 「別に慌てなくても」  そう言いながら、美緒の握りしめた物に目を留めた。 「デートのお誘い?」  隣の席で、大木が顔をあげたのが見えた。 「今行くから、ロッカールームで待ってて!」 美緒は慌てて机の上を片付けて、パソコンの電源を落とした。 「別に、いきなりホテルに誘われたわけじゃなし。やだやだ、年齢不相応女は」 「いや、だって、この前緊張しすぎて、なんかヘンな人だったし」 「彼のどこに緊張する? 顔は良いけどさ、この前飲みに行った時も、普通の人だよ? 却って優しいくらいじゃない?」  うん、水族館を出た後も、居心地が悪くならないように話を繋げてくれたのは理解してる。 「言っちゃ悪いけど、男の匂い薄いし。そういう意味でも緊張は薄いと思うんだけど」  あ、なんか違和感。なんだろう。  事務服をロッカーに入れながら、美緒は違和感の正体を探る。鈴森が今言ったこと。男の匂い薄い、だ。 「男の人だよ?」 「そりゃ、性別は男だろうけど。あの体格とあの顔じゃ、スカート穿いても違和感ないでしょ」 「女には見えないと思う。歩き方とか喋り方が女じゃないもん」  美緒がそう言うのを鈴森は驚いた顔で聞き、しばらく考えてから断固とした口調で言った。 「松坊、緊張してもいいから、篠田さんと一緒に食事でも何でもしておいで」 「なんで?」 「なんででも。今、ここで返信しちゃいな。ロビーで待ってるから」 あの考えた時間はなんなのよ。断る理由はないから、行くけどさ。行くけど。 〈木曜に会議があるので、できれば金曜がいいです〉  返信をしばらく待つ。 〈忘年会シーズンだから、金曜日は無理でしょう。土曜はこちらが仕事ですから、日曜のランチでどうですか〉  コートのボタンを留めながら、鈴森の待つロビーに向かって歩く。  うわ、2週連続で待ち合わせって、なんだか……
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