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let fall to you
日曜の朝、化粧を始めた美緒は急に気が重くなった。休みの日にわざわざ電車に乗って出掛けても、共通の話題なんかない。
ああ、でも誘ってくれたんだ。この前のあたしが、あんなにつまんないヤツでも。あたしのどこを気に入ったのか、わかんないけど。
普通なら、友達になるのに手順なんかいらない。気が合いそうだと思えば、連絡を取り合えば良いのだ。面倒だな、と美緒は思う。
実を言うと「つきあってる関係」っていうものに、興味はある。高校生の頃にいた「彼氏らしきモノ」とは手を繋いで遊園地にも行ったし、校舎の裏でこっそりキスしたりした。でもあれは、学校という括りの中で一番恋愛に近い男の子だっただけだと思える。その証拠に卒業してから少しずつ疎遠になって立ち消えた時、繋ぎとめようという気もなかったではないか、と美緒は考える。
少なくとも、あたしに興味があるんだよね。だから、あたしがどんな人間なんだか向こうだって見極めたい筈。話は全部それから。
美緒は小さく気合いを入れて玄関を出た。
上野って、動物園と美術館しか知らないんだけど。
大パンダの前でスマートフォンを弄りまわしながら、龍太郎は思案に暮れていた。美緒の交通の便を考えての場所の選択だったが、中学校の時のフィールドワーク以来、上野に来たことはない。知っているのは西郷さんの場所くらいものである。ちょっとくらいリードしたいところだが、土地鑑ゼロだ。
ま、どうにかなるでしょ。無人島じゃないんだから。
先程パンダ橋から見ただけの上野の街は、ビルばっかりに見える。上野の山の中にあるのは、動物園と美術館の他になんだろう?
知らねえ。俺、イナカモンだし。
龍太郎の実家は龍太郎の住む路線の奥の方なので、生活圏が違うだけなのだが。
「ごめんなさい。遅れましたか」
「遅れてません。時間前ですよ」
龍太郎が美緒に向き直ると、ほっとした笑顔が戻った。
「篠田さんが先にそこに待ってるのが見えて、焦ったんです。待たせちゃったかと思って」
龍太郎も笑顔を作ってから、言葉を発した。
「罰金」
「なんで?」
「篠田さんじゃないでしょ?」
あ、と気がついて、きまり悪そうになった美緒の顔は、妙に子供のようだった。
「その顔がかわいいから、いいや。次から五千円」
「高っ!」
「お財布に痛ければ、忘れないでしょ?」
「篠田さんが間違えたら、私が罰金もらうんですよ」
「はい、罰金」
「だめっ! 次からっ!」
大丈夫、先週よりも話しやすい。会話の呼吸がずいぶんと楽になっていることに、龍太郎と美緒は同時に安堵した。
「誘っといて悪いんだけどさ、俺、上野ってまったく不案内なんだよね。行きたい場所、ある?」
「あたしもトンカツ屋とアメ横の中しか知りません。探検してみます?」
アメ横……著しく色気に欠ける場所である。未だに闇屋を連想させる小売店が軒を連ねているのは、龍太郎だってニュースで見たことはある。年末であるために人通りが多いのか、それとも普段からなのか知らないが、やけにゴミゴミしている。
とりあえずローストチキンの店に腰を下ろすことに決め、向かい合わせに座る。
「本当は、もつ煮の店なんか行ってみたいんです。女同士だと行きにくいし、ひとりだともっと勇気がいるし」
「じゃ、今度はそれにしよう」
あ、今度って言った。美緒は胸の中で呟く。この人は不自然なく「今度がある」と思っているんだろうか。
「美緒ちゃん、このあと時間は大丈夫?」
そう聞きながら、龍太郎は美緒の表情を探る。不愉快な要素があれば、ここで「予定がある」と帰ってしまうだろう。
「時間があれば、動物園と美術館以外の所に案内して欲しいんだけど」
「私も知っているのは、それプラス博物館くらい」
「じゃあ、そこ。アカデミックしよう」
席から立ち上がり、伝票を手に取る。
「払いますっ!」
「カラダで払う?」
普段のやりとりのベタな冗談だ。上司に言われたって、セクハラだなんて言わずに切り返せる。なのに。
Bomb! 弾けた顔色に一番驚いたのは美緒自身で、口元を押さえたまま、一度立ち上がりかけた椅子に再び腰を落とす。
「……美緒ちゃん?」
肩に置かれた手に、美緒はますます顔が上げられなくなった。
まずいっ! 高校生じゃあるまいし、こんな冗談を聞き流せないほど純情じゃないっ!
「ごめん、こういうジョーク、ダメだった?」
予想外の美緒の反応に、龍太郎は慌てた。
「謝るから、顔あげて」
悪くない人に謝らせちゃいけない、と美緒は焦る。
「篠田さんのせいじゃありませんっ!」
慌ててあげた美緒の顔は耳まで朱の色で、視点の定まらない涙目だ。
「なんか、違うツボに入っちゃったみたいで。やだもー、なんでぇ?」
もう一度頬を押さえて下を向く美緒を見下ろして、龍太郎は肩に置いた手を引っ込めた。
やばい。今の顔でやられちゃったかも――
龍太郎がそう思っても、美緒はもちろん気がつかない。
「篠田さんじゃないでしょ、罰金」
……頼むわ柴犬、もう少し懐いてくれ。
国立科学博物館の中は、意外に混雑していた。いくつかに分かれた館内は、方向を見失うと何を見ていいのかわからなくなる。
「博物館に来たら、恐竜の骨を見なくちゃ気が済まない」
そう言う美緒に従って、龍太郎は勝手のわからない館内を歩く。どうも、大きな生物が好きらしいと見当がつく。
大きな生物……ダメじゃん、俺!
フロアマップを片手に動き回り、屋上のハーブガーデンに到着すると夕暮れ近かった。
「あ、残念。お天気の良い昼間だと、あっちがわのソーラーパラソルが全開で綺麗なんです」
「じゃ、次はそういう時に来よう。そろそろ閉館でしょ?」
閉館30分前だ。
「公園の中でライトアップしてるみたいだから、見に行かない? 時間、大丈夫?」
中学生にだって早い時間だ。
「大丈夫です」
暗くなった上野公園の中を、並んで歩く。春には花見の名所になる通りに、桜の代わりのようにピンク色の灯りが飾られている。イルミネーションを辿って見ている親子連れやカメラマンに混ざって、カップルも目立つ。前を歩くカップルに、龍太郎はふと目を留めた。男が女の肩を抱き、女は男に凭れ掛るように歩いている。
あれ、俺はできないんだよな。
龍太郎の身長と腕の長さでは、女の肩に腕を回すと必然的に顔が自分の真横に来てしまう。
大きいものに寄りかかる安心感が、俺にはない。そう思うだけで暗澹たる気分になるのは、過去のいくつかの失恋の理由だったからだ。
きらきらしたイルミネーションにはしゃいでいた美緒は、隣の雰囲気が重くなったことに気がついた。
「篠田さん、どうかしました?」
「……罰金。俺、馴染みにくい?」
「そうじゃないんです。慣れなくて」
イベント会場で立ち止まるには、妙な雰囲気になった。
「慣れないって? 俺に慣れない?」
「じゃなくって」
これを言ったら、他の意味に取られるかも知れない。でも、他に表現のしようがない。
「男の人とふたりで出歩くことに慣れないんです」
男の人。その言葉に慣れないのは龍太郎だ。今まで中性的だの可愛らしいのと散々言われ続けて、それを修正するために必死だった。この女の子は、まだそんな部分など見てもいないのに、自分のことを「男の人」だと言うのだ。一番のコンプレックスは、この子に意味を持っていなかった。
やられた。
龍太郎の沈黙が何を意味しているか、美緒はもちろん知らない。
何で黙っちゃうの? やっぱり言っちゃダメだった? 男の人とふたりに慣れない、なんて高校生みたいだもの。呆れたかも知れない。
黙ってしまった龍太郎に話しかけることもできず、美緒はやはり黙ってイルミネーションを見ていた。立ち止まったままだと、十二月の日暮れ後は寒い。何かヘマをしたのかもしれないと気が気ではないのだが、自分の言葉を反芻しても、龍太郎自体を貶めた言葉を使った訳ではなく、沈黙の意味がわからない。
「そろそろ、冷えてきません? 場所を移動しましょう」
美緒がやっと掛けた言葉に、龍太郎ははっとしたように顔を上げた。
「ごめん、ぼーっとしてた。軽く何か食べようか。さっき言ってた、もつ煮ってところに行く?」
あたしに対して不機嫌なわけじゃないんだ、と美緒はほっとする。少なくとも、すぐに帰ろうと言わないのだから、気分を害しているのではない。
「駅ビルに何かあります。そちらの方が、動きやすいです」
「じゃ、そうしようか」
並んで歩き出すと、会話が戻ってきた。
「好き嫌いはある?」
駅の中にあるハードロックカフェに入り、軽い夕食にした。美緒が頼んだのはピザだったのだが、途中で龍太郎に「シェアしてください」と言いはじめた。
「どうしたの? 『たぬきや』の鮪丼を食べる人が」
「入らなくなっちゃって。どうしたんだろう」
困ったように美緒は小さな声で言った。
「具合悪い? 歩かせたから、疲れちゃったかな、ごめん」
「違います。それは楽しかった。篠田さん……じゃない、龍太郎君も疲れたんじゃないですか?」
慌てて言い直した表情がかわいいと思い、龍太郎の表情は和む。
「俺は男だし、仕事も現場が多いからさ。名前、やっぱり呼びにくい? 無理しなくていいや。ゆっくり慣れて」
こんな顔するんだ!
美緒を覗き込んだ顔に浮かんでいるのは、やわらかくて懐かしい大人の表情だ。どきん、と心臓が大きな音を立て、美緒の視線は龍太郎の顔の上で止まった。
「美緒ちゃん、やっぱり疲れちゃったんでしょう。帰ろうか?」
正しく割り勘して駅の改札から一緒に入り、美緒を常磐線のホームまで送った。
「また、誘っていいかな」
龍太郎の確認するような視線を避けるように、美緒は俯いた。
「楽しかったです。連絡ください」
手を振って階段をのぼる龍太郎を目で追いながら、何故視線を返さなかったのかと美緒は後悔していた。
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