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その数年で弾けたバブルなんかは、僕には殆ど影響がなかった。
大学を中退して旅に明け暮れていた僕は、その夏、資金稼ぎのため横浜の巨大なホテルで、レストランの清掃のバイトをしていた。
勤務は深夜。
朝の7時。
勤務が明けて、駅へ向かってとぼとぼ歩いていると、すれ違ったガタイのでかい男に突然声をかけられたのだ。
「惣ちゃん、やろ?」
あ?あれ?ああ!
意外な人物と意外な場所で、不用意にばったり出会うとたじろぐ。
名前は、そうだ、バッキ―さん。
僕が2年前、岐阜の旅館で雑務のバイトをしていた時の板場の人。関西弁でいつも話していた。大阪の人らしい。
30代半ばは過ぎているだろう。年は僕より一回り位上のはずだ。
そのバッキ―さんが、朝7時の駅へと続く道、反対側から突然僕の目の前に現れて、無精ひげでにかっと笑っている。
一生に何度もない偶然だ。
おやおや、とお互い言葉にならない。
僕はそのままバッキ―さんに導かれ、バブルの時流にも取り残されていたような古い小さな酒屋に落ち着いた。
普通の酒屋なのだけれど、そこで酒が飲める。店内と軒先にビールケースが置いてあり、テーブルと椅子代り。先客2名。
「ま。久々やな、惣ちゃん。乾杯」
「乾杯です」
僕たちは、店内唯一の調理した肴であるもつ煮をつつき、缶ビールを飲んだ。
「こんな所あったんですね。こんな時間から開いてる」
「あはは。この辺、朝から飲んでるおっさんも多いからな。こっちきてすぐ見つけたんや。暇なときには通ってん」
「はは。ちと羨ましい。ところでバッキ―さん、今、なにしてんですか?横浜で」
「求職中。ええ仕事あるかなおもて、こっち来たんやけどな。まあ、あるんやけど、あればあるで欲が湧く。決まらんねん」
「ああ。成程」
つまみも酒も、店内の棚のモノを自分で持って来て、レジでその都度清算して飲むスタイル。安い。僕は、魚肉ソーセージにむしゃぶりついた。
「すげえ食いっぷりやな」
「あ。すいません。腹減って」
「ははは。そやね。暇人の俺とちゃう。今仕事上がりやもんな」
「はは」
「それにしてもな、さっきから気になってるんやけど」
「はい」
「惣ちゃん、顔色、悪ない?」
ああ。そっか。
「寝てないんです。三日」
「なんでや?」
「今、深夜勤務でしょ。掃除してんですけどね。僕、体内時計が思いのほかしっかりしてるっていうか、融通が利かないっていうか」
「ああ。昼夜逆転の生活に対応できない?」
「ええ。ここのバイト始めて、今日で4日目か。まったく寝てません。昼間、寝られない」
今まで寝られないなんて経験をしたことがなかった僕にとっては、これはしんどい経験だったのだ。
仕事が終わって、三畳のアパートに戻って、寝袋に入る。目をつぶる。でも、眠れない。眠れないまま、出勤時間を迎える。それが3日。今日が4日目。
今日は眠れるだろうか。
「そりゃ、気の毒やなあ。ま、飲も。寝酒になるで」
「あはは。そうなればいいですけどね」
「あ。そや」
「はい?」
「アイマスクがええで。真っ暗になる。試してみ」
「ああ」
「大きな駅のキオスクにはあるんちゃうかな」
「使ってみます。寝たい。とにかく」
「な。やってみて。それにしても、懐かしいな。もう、あれから」
「2年です」
2年前、僕は、秋から春まで、岐阜の山の中の温泉宿で仕事をしていたのだ。
旅館の雑魚寝部屋には、僕の他3人の男が寝泊まりして、三食付きで働いていた。
バッキ―さんは、僕より少し前からそこで働き始めていたらしい。
板場のバッキ―さんには、雑魚寝の僕らと違って、個室をあてがわれていたけれど、毎日のように僕たちの部屋に遊びに来ていた。トランプや花札に興じたり、酒を飲みながら、一緒にテレビを観たりしていたのだ。
旅館は人の入れ替わりが激しい職場だ。バッキ―さんも、僕が岐阜を離れて少ししてから、そこを離れたらしい。
僕たちは、お互い知ってるその頃のメンバーの消息を話した。
「ほら、あいつ、眼鏡かけた人の好さそうなクマみたいな。いたやん」
「ああ。いましたいました。何さんでしたっけ」
「ああ。名前は忘れたなあ。そいつはな、惣ちゃん辞めたすぐ後で、出家したで」
「え?出家?お坊さん?」
「いや。新興宗教。あいつ、やたらいい奴やったもんな。拠り所があったんやな」
二人ともビールの缶をあっという間に空にして、チューハイを飲みはじめた。いい感じに酔ってきた。
名前を思い出せない彼の意外な消息に驚かされた後、バッキ―さんは、不意に改まった口調になったのだった。
「あのな」
「はい」
「あのな。祐子ちゃん、覚えてるな」
「え?」
「冬休みにバイトに来てた大学生や」
「え。あ。あ?はい」
忘れるはずがない。
「惣ちゃん、ラブレター書いたやろ、祐子ちゃんに」
え?
それは、確かに。
でも、なんでそんなことをバッキ―さんが知ってるんだ?
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