立つ鳥は跡を濁さずに逝きたい

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『死にたくない』  そう言って、男は地面に身を這わせた。ずるりと動いた体。だが、実際には男の血まみれの体は崖の下で倒れており、一ミリも動いていない。動いたのは彼の幽体だった。人は死にかけていると、体からずるりと幽体とか魂とか呼ばれるものが抜ける。そしてそれが完全に抜けてしまうと、死が訪れる。 『帰らなければ、家に』  悲壮な叫びが聞こえる。本当は叫びにもなっていないんだけど、おじさんには聞こえたんだ。おじさんは幽霊だから、魂が発する声が聞こえる。だから、お兄さんのところに行ったんだ。そして聞いた。何でそんなに家に帰りたいんだいって。  そこまで言って、おじさんは私をちらりと見た。あれから毎晩、おじさんは病室にやってくる。そして、彼は自分の仕事について語る。私は未だ死んではいないようで、それでいて生きてもいないようだった。ふわふわと寝たままの自分の周りを飛びまわりながら、看護師さんの仕事を見たり、おじさんが来るのを待つだけの日々。私は話の続きを促す。 「なんて言ったの?」 「書いていた同人誌を捨てて欲しいって」 「は?」 「『執筆しているパソコンには二重にパスワードロックをかけている。でも、明日のイベントのために冊子にした同人誌が山ほど部屋にある。あんなもの、家族に見られたら死んでも死にきれない……!』って。わかるなあ、その気持ち」  分かるか? そんな気持ち。   「だからおじさんは、彼の家に行って部屋を綺麗にお掃除してあげたんだよ。もちろん、同人誌の山はゴミとして捨てておいた。それを伝えると、彼はとっても喜んでね。これで心置きなく死ねるって、すごく感謝されたんだよ」  おじさんはそう言ってにっこりと笑った。内容はともあれ、死ぬ直前の一番の心残りを解消してくれたのだ。たしかに感謝してもしたりないほどだろう、というのは理解できた。そして、おじさんが人助けができて嬉しく思っていることも。 「この間はね、家で熱中症で倒れてるおばあさんだったんだ。彼女の最後の願いはなんだったと思う? 子供や孫に発見される前にせめて、部屋を綺麗にしておきたいって。孫たちが遊びに来るときにはいつも必死で掃除していたみたいだね。庭は綺麗に手入れされているのに、家の中はゴミ屋敷なんだから、よっぽど見栄っ張りなんだろうね。一輪挿しがゴミに埋もれてたから、掃除した後に庭の花を一輪、玄関に飾っておいたよ」 「単身赴任中のお父さんはね、職場で倒れたんだけど。不倫相手が部屋に置いていった歯ブラシが気になって気になってしょうがないって言ってて。証拠隠滅はどうかと思ったけど、子供も小さいみたいだからね。死んだお父さんは不倫してたのよって言われるのも子供が可哀想だから、長い髪の毛とか歯ブラシとかまとめて綺麗にしてあげたよ。泣きながら感謝されたけど、彼は天国に行けたのかなあ」 「お風呂で転んで病院に運ばれたおじいさんは、現金のへそくりを書斎に並べた図鑑型の箱の中に隠していることを気に病んでいて。家族は本になんか興味がないから、自分が死んだらロクに確認もせずに燃えるゴミとして捨ててしまうんじゃないかって。だから、お掃除した後にお金が見えるように図鑑を床に広げてきたんだ。数千万はあったかなあ。相続税はかかるだろうけど、いいよね。お金持ちって」 「バイク事故にあったお兄さんは、アイドルのポスターとCDを片付けてくれって。別に死んだ彼氏がアイドルオタクでも、彼女は気にしないと思うんだけどね」 「急性アルコール中毒で倒れたお母さんには、部屋にある血液検査の紙を燃やしてくれって言われたんだ。なんでも子供の血液型をしらべてみると、旦那との間では生まれない型だったらしいよ。お父さん、今頃ちゃんと子供を育ててくれてるといいけどなあ。子供に罪はないからね」  人生いろいろである。  最初はどうせ死んで消えてしまうのに、死ぬ前にどうして掃除など頼むのだろうと思っていたが、話を聞いているうちに、少しだけ理解ができてきた。みんな死んだ後に、隠していた姿を知られるのが怖いのだ。こっそりと自分だけの部屋で、誰にも知られまいと思ってやってきたことが、死ぬ直前に、このまま死んでしまえばバレてしまうということに気づく。  だが、それはある意味で幸せなことではないだろうか、とも私は思う。死んでまで格好をつけたい、自分を偽りたいと思うような相手がいるのだ。  私には、そもそもそんな相手がいないのだから。  
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