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立つ鳥は跡を濁さずに逝きたい
私は死に瀕していた。
最後に覚えているのは、目の前に迫った白い車。
衝撃は覚えていない。救急車に乗ったことも覚えていない。病院に運ばれたことも覚えていない。うっすらと目を開けると、知らない人に話しかけられた。白衣を着た女性は、きっと看護師さんなのだろう。白い天井には、点滴の袋と管が見えている。口をぱくぱくと動かしていた彼女は、やがて諦めたように立ち去った。何を言っているかわからなかったし、声を出すことも体を動かすこともできなかった。
このまま死んでしまうのだろうか。
ただ朦朧とする意識の中で、漠然とそう考えた。痛みはない。体の感覚が全て切り離されてしまったかのように、何を感じることもない。たまにお医者さんや看護師さんが訪ねてくる。だが、彼らが何を言っているのかわからなかったし、何をしているのかもわからなかった。ただ、朝になるとカーテンが開けられるのか、薄く光が差し込むのだけはわかった。何度も夜がきて、朝が来た。
「やあ」
何度目かの夜に、知らない男の人が立っていた。お兄さんでもおじいさんでもない。おじさんだ。強面で、昔の白黒映画に出てくる俳優のような、渋い雰囲気をまとっている。グレーの光沢のあるスーツには清潔感があったが、なんとなく病院には似つかわしくないように思えた。ここで会ったのは、医師と看護師だけだから尚更だ。だが、見知らぬ男に対して、不思議と恐怖心はなかった。生死をさまよっていれば、そんな感覚も麻痺してしまうのかもしれない。
「こんばんは、お嬢さん。ご機嫌はいかがかな?」
ご機嫌はいかがと言われても、声も出せずに体も動かせないこの状況で、どう答えろというのだろう。全身を医療用のチューブに繋がれているのだ。そう考えて、彼の言葉の意味が理解できたことに気づいた。これまで医師や看護師が口を開いても、何を言っているのか分からなかったのに。
「あ」
自分の声が出た。口を動かした感覚はないのに、声が出ていた。それを見て、おじさんはにっこりと笑った。私は手を動かそうとした。だが、やはり手は動かない。手を動かす方法を忘れてしまったかのようだ。
「おじさん、だれ?」
「おじさんはね、幽霊だよ」
幽霊。そう言われて、なるほど、と思った。私は死んでしまったのだ。
衝撃はなかった。生きているか死んでいるか分からない朝を何度も重ねるたびに、自分の体と感情が全く動かないのを自覚するたびに、自分はこのまま死んでしまうのだろう、と思っていたのだ。
「私も幽霊になったの?」
「まだ生きてると思うよ。ほら」
言われて示されたところに、心電図があった。テレビや漫画で見たのと同じように、赤い線が定期的にびょんびょん跳ねている。あれが停止したら、死んでしまうのだろう。そう考えて、自分が頭を起こしていることに気づく。こんなに簡単に体が動かせただろうか。すると、自分の顔が自分で見えてぎょっとした。頭を包帯でぐるぐる巻きにされ、げっそり痩せて血の気の失せた自分の顔が見える。まるで死に顔だ。思わず声が出た。
「ひどい顔」
「そう? 事故にあったのに、綺麗な顔をしているよ」
にっこりと笑いながら言った男に、私は目を瞬かせる。なるほど、下手をしたら、車にぶつかってぐちゃぐちゃになった顔を見ることになったわけか。そう考えると、ラッキーかもしれない。どうせ死ぬのなら、綺麗な顔で死にたい。
私は自分を見下ろした。包帯でぐるぐる巻きの全身はベッドに横たわっており、ぴくりとも動かない。そして、無傷に見える自分はベッドに上体を起こしている。まるで漫画の中の世界だ。半透明の自分は何だ。幽霊ではないということは、私の生き霊か。
「まだ生きてる、ってことはこれから死ぬのね?」
「随分と冷静だね。死ぬのは怖くないの?」
おじさんの言葉に、私は少し考える。
死ぬのは怖い、という漠然とした思いはある。だが、母親はとっくに天国に行ってしまったし、父親の再婚相手と喧嘩して家を出て以来、父とも会っていない。学生時代に友達はいたが、親友と呼べる人はいない。家を出てからは、連絡も取っていないのだ。彼氏はいないし、できたこともない。遊びに行く相手など久しくいないし、そもそも遊ぶお金もない。今はバイトで食いつないでいるが、家賃と光熱費と食費を払うと貯蓄に回せる金額も残らず、いつだって将来の不安と隣り合わせなのだ。いずれ孤独死をするに違いない、と思っていた。
現に今だって。事故にあったというのに、病室には誰も見舞いにこない。
「死んだら、将来の心配も、入院費の心配もしなくて良いでしょうし」
そういうと、おじさんは困ったように笑った。
「ってことは、やり残したこととかないんだ」
やり残したこと。いつかは結婚して子供が欲しいと考えたこともあるが、それは遠い遠いところにあるもので、自分が手に入れられるものと考えていなかった。私はしばらく考えてから言った。
「金曜日のドラマ、続きが見たかったんだけど」
「そういうのじゃないんだけどな」
「そういうのって?」
私が聞き返すと、おじさんはにっこりと笑った。
「おじさんは、掃除をするのが仕事なんだ」
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