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「紗希、荷物をまとめて出て行ってくれ」 「…え?」 「彼女に子どもが出来た。男として責任取らないといけない」 「そうなんです~、駿(しゅん)さんと私、身体の相性最高で…数回エッチしただけで子ども出来ちゃって~」 あ、何年経っても子ども授からなかった人の前でごめんなさい☆と化粧の濃い女が駿の腕に胸を押し当てながら、甘ったるい声と匂いを部屋中に振りまきながら、上目遣いをして寝惚けた事を言っていて。結婚して三年の駿はすっかり脳がお花畑になっているらしく、デレデレした顔で女と話している。 彼女って何。私は妻なんだけど。妻がいる人って彼女がいるものだったっけ。 身体の相性。それはそれは結構ですね。ずっと駿からの夜のお誘いがなかったのはそういう事なの。私は性欲薄いから気付かなかったわ。 放心したまま貴重品をまとめ、部屋を飛び出していた。もう少し長くあの部屋に居たら気が変になってしまっていた気がする。ムカムカする胸の痞えを吐き出す先もないまま、電車に飛び乗り、乗り継いで行ける所まで行く事にした。終点だった駅から少し歩けば海が見れるようだったので、その足で歩いた。たまたま家を出る時に選んだのがスニーカーで良かった。部屋を出る際に駿が慌てて追って来たかと思うと、記入済みの緑の紙を渡して来た時は本当によく発狂しなかったものだと自分を褒めてあげたい気持ちだった。 なだらかな坂を怒りに任せて大股で闊歩すると、前方からこっちへ歩いて来ていた海釣りの帰りって風体のおじさんが私からススッと距離を取った。すれ違う瞬間も困った顔した後に俯いて、足早に去って行った。…私、そんなに恐ろしい形相で歩いているのだろうか。今笑えって言われても無理だけど、男の人が避けて歩く程、恐い顔しているの? …自分の顔を想像して、嫌になった。 「…うみ、だぁ」 電車を何時間も適当に乗り継いで来てしまったけど、眼前一杯に広がった海を眺めたらここまで来た後悔なんて吹き飛んでしまった。防波堤をとぼとぼ歩き、先端で座り込む。風は少し冷たかった。 海なんて、何年ぶりに来ただろう。恋人時代はよく駿とドライブがてら来ていた気がするけれど、気付けば休みも合わせる事は減っていき、結婚してからはデートらしいデートはしていなかった。 「…私にも、責任あるよねぇ」 何でこんなに放って置いても、結婚してるってだけで駿がずっと傍にいるなんて思えたんだろう。学生時代には散々元カレ達に「冷たい」「本当は好きじゃないんでしょ」「強いから俺がいなくても平気だね」って言われてきて、私は恋愛向いてないんだって少なからず傷付いていた時に「それが紗希らしいって事なんだから、別にいいんじゃない。俺は紗希のさっぱりしてるとこ好きだけど」って慰めてくれた駿を…本当に大事にしなきゃって思ってたのに。 時間が流れるとそんな初心は薄れ、一人になって気付いた。 大事にしなきゃって義務感だけが私に付き纏って、いつしかそれを重荷に感じていたんだって。 「そりゃ…女全開の浮気相手の方が可愛く見えるわな…」 怒りがすっかり消沈すると、今度はやけに冷静になった脳みそがこれからの事を考え出した。思い付きで知らない土地まで来てしまったけれど、衣食住をこれからどうしようかと悩む。若い内に両親が他界している私には、頼れる身内は皆無だった。なけなしの貯金ではホテル暮らしするのも不安が付き纏う。仕事に関しては折り合いの悪かった上司と大喧嘩をして一週間程前に辞めており、求職活動中だったのが幸か不幸か。このまま駿の生活圏に戻らなくても、姿を消す事は可能だった。 「どうしよう、かな。…とりあえず、海に来たんだし」 私はすぅっと息を深く吸い込むと、「駿のバカー!! 浮気すんならせめて若くて美人にしろー!! 私と同レベルで妥協してんじゃねぇー!!!」 「浮気されたんだ、オネーサン」 「?!」 近くに誰もいないと思って叫んだのに、真後ろから声が聞こえて思わず振り向き…そして重心がよろけた。やば、これは確実に…海に落ちる… 「…っ?」 覚悟していた落下感も、水の冷たさもいつまで経っても訪れなくて。 私の背中に腕を回して支えてくれていたのは、私より大分若く見える男の子だった。色素が薄めの瞳が私の顔を覗き込んで、にこっと笑った。整った顔立ちに一瞬見惚れ、私は咄嗟にお礼も言えないまま口をパクパクとさせていた。 「間一髪だった。驚かせてごめんね」 「…ええと」 「うん、びっくりしたお陰で涙止まったね。良かった」 背後から急に声を掛けるという怪しい美青年は「俺も隣に座る」と言って了承も得ずに腰掛けていた。私は青年に言われた“涙”というワードに初めて自分の頬を触り、雨も降っていないのに流れている一滴に「…えぇ?」と困惑の声を上げた。いつから泣いてたんだろう、恥ずかしくて手で拭っていると目の前にハンカチが差し出された。 「擦らない方がいいよ。それに思いっきり泣いたらいいと思う。気付かないって事は、自分で思っている以上に泣きたいんだよ、オネーサン」 「…私、泣きたかったんだ」 ストンと青年の言葉が胸に落ちてきて、私は「ありがとう」と言って遠慮なくハンカチを借りる事にした。潮風に混じって、ハンカチから爽やかな香りがした。不思議なぐらい好きな、落ち着く匂いで。私は涙を止める努力を止める事にした。 「…いつから、見てたの」 「オネーサンが駅から海に向かって歩いてる時から。泣いてるし、行先は海だし…万が一があったら、俺も寝覚めが悪いからさ」 そうか、自殺でもするのかと心配されていたわけか。 初対面の、ちょっと目に入った他人を心配して追いかけて来てくれたんだ。 「オネーサン、今ちょっと嬉しいでしょう」 「え、何で」 「さっきより目に力が戻ってる。分かりやすい人で良かった」 にこーとした顔のまま、私の頬をうにうにと両手で包み込んだ青年は、そのまま私の顔をマジマジと眺めた後。 「浮気野郎なんか忘れるくらい、幸せになっちゃおうよ」 その相手の候補に、俺を入れてくれたら嬉しんだけど。なんて冗談か本気か分からない平淡な口調で言うと、「まずはお近付きって事で。俺は(たつみ) 純也(じゅんや)。オネーサンは?」なんて無邪気な顔つきで言うものだから。警戒なんてする事も忘れて「紗希…千堂(せんどう)紗希(さき)」と名乗っていた。巽純也と名乗った青年は、そのまま私を立ち上がらせたかと思うとそのまま手を引く。つんのめりそうになって思わず引かれるまま歩き出すが、私は慌てて「どこ行くの?」と問いただした。 「紗希、行くとこないんじゃない?」 前を向いたままの巽君がそう言うと、反論出来ず「う…」と唸ってしまう。というか、呼び捨てなのね。彼は楽しそうに繋いだままの私の手をぶんぶんと振りながら「秘密基地に誘ってあげるよ」なんて言っている。 …逃げた方が良い? 悪い仲間が待ってたら? ちょっと考えて、バカバカしくなって止めた。あんなキラキラした目を向けて来る子が悪人には見えない。 「巽君、甘えついでにお腹も減った」 彼は振り向いて丸くした目をまたにこーっと笑わせたかと思うと、 「じゃあご飯の確保が先決だね」と言って私の手をギュッと握った。 うん、もうどうにでもなれ。このままこの青年の秘密基地を見てからこれからを考えよう。ちょっと疲れた。溜息を吐くと、彼は「幸せになる人は溜息禁止だよ」なんて言って穏やかに笑っていた。
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