旅する心

1/1
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 甘ったるい臭いで目を覚ました。寝台の仕切りのカーテンをめくって見ると、両手にヤカンを抱えたチャイ売りが通り過ぎた。いつ電車に乗り込んできたものか。  腕時計は、インド時間で午前五時半を指している。元彦は舌打ちして起き上がる。カルカッタ駅で買い込んだペットボトルの水を喉に流し込む。  車窓側のカーテンを引き開けると空はもう刺すように晴れていて、元彦はうんざりと、ため息をついた。  妹のヨキ子が留学先のインドから帰国せぬままインド人と結婚すると手紙を寄越した。  母親は、やっぱりあの子は父さん似ねえ、とそっけなく言っただけだった。元彦はヨキ子を無理矢理にでも日本に連れ帰るべきだと喚いたが、あんたは一体、誰に似たのかしら石頭よね、と一笑に付されただけだった。  放浪癖のある父親はどことも知れぬ旅の途中らしく、手紙のひとつも来やしない。  元彦は一人、デリー空港に降り立ったのだった。  デリー市内の妹夫婦の新居は、四畳半一間くらいの狭さだった。シャワーと、台所と、トイレは共用。そのトイレは、悪名高い、尻を自分の手で拭くと言う、アレだった。  トイレの壁を、よくわからない虫が這っているのを見て、元彦は悲鳴を上げて飛び出した。  兄さんは潔癖すぎるのよ、人生の意味を変えた方がいいんじゃない? シャンチニケタンの私の母校に行きなさいよ、すばらしい先生がいるからと妹に言われたが、元彦はすぐにも妹を空港に引っ張っていくつもりだった。  ところが、妹婿が、チャイという名の甘いミルクティーを持ってきて、飲め飲めとしきりにすすめる。茶碗を持つ右手か、左手かが、彼の尻を拭いたのだと思うと、元彦は茶碗を受け取ることすらできない。急いでシャンチニケタンに行くからと叫び、部屋を飛び出し空港に取って返したのだった。  飛行機でカルカッタまで、そこから電車に乗り越えてボルプールと言う街まで行くのだと衛星携帯で調べた。行くと言ってしまったら、行かないわけにはいかない。元彦はそういう、融通の聞かない男だった。  カルカッタの駅で高級寝台車の切符を買っていると、売店にチョコバーやスナック菓子、ペットボトルなどの見慣れた製品を発見した。元彦は歓喜の涙を流しつつ、それらを買い込んだ。インドにいる間この食料以外は口にしないぞと心に誓って。  ボルプール駅は、極彩色に塗りたくられていた。頭を焦がすような陽差しも加担して、元彦の脳をガラガラと掻き回す。  駅を出ると右から左から、薄汚いシャツを着た男たちが押し寄せ、俺のリキシャに乗れ、いや俺の方が安くすると客引き合戦を始めた。  人力車に自転車が付いたようなリキシャという乗り物に乗らずにここから移動するのは、男たちの勢いを見てしまっては、橋のない川に飛び込むような無謀な行動だと思えた。  元彦は、忌避すべき男たちの手を避けてジリジリと後退しながら、この窮地を脱するにはどうしたらいいか、目をグルグル回して考えた。グルグル回した視線の隅に、ぽつんと立つ少年と、彼の派手なリキシャが入り込んだ。  元彦は大声の英語でその少年を指名した。乗り物が決まってしまった人間には、微塵も興味がないらしい。男たちは、あっという間に解散した。  少年が自転車で曳くリキシャに乗って街を行くのは、元彦にとってインド式トイレの次に避けたいものとなった。銀モールやケバケバしい造花、意味不明のペイントで、祭りの山車のように飾り立てられたリキシャという乗り物に座っていると、道行く人から阿呆だと思われ冷たい視線で見られているのではと気になって、道中ずっと自分の膝だけを見つめていた。  リキシャはしばしば立ち止まった。道を横切るノラ牛や、ノラ羊の通行のためだった。元彦はイライラと牛や、羊や、猫や、犬を睨みわたしたが、彼らは、ちっとも意に介さないようだった。  大学に行くよう英語で指示したのだが、少年は元彦を一軒の宿の前で下ろした。  元彦が、がなり立てる苦情を、少年は急に英語がわからなくなったフリをして聞きもしない。宿から出てきた恰幅の良い中年女が、元彦の腕を掴んで宿の中に連れて行こうと、手を伸ばして門の中に引っ張り込んだ。  逃げようにも、少年とリキシャが門の外でバリケードを張っている。女の手は何年も素手でトイレを……と思うと、その腕から逃れられるならなんでもするという気持ちになった。  元彦は裏返った声で、ここに泊まる、泊まるからとルピー札を数えもせず、投げ捨てるように、女に渡した。  少年のリキシャに乗せられてシャンチニケタンのタゴール大学の門をくぐったころには、元彦はぐったりと疲れきっていた。  汗まみれで、シャツはシワシワ、髪もグチャグチャになっていたが、どれを直す気力も無い。遠くに見える何棟もあるレンガ積みの小さな建物に向かって歩いていく。どうやら、一棟で一教科を教えているようだ。  古典舞踊を教えていた教授に妹の恩師の名を告げると、彼は門の近くの菩提樹を指差す。元彦は足を引きずり引きずり来た道を戻った。様々な校舎の窓から学生たちが顔を突き出し、物珍しげに元彦を覗いている。    その視線をかいくぐって菩提樹の下にたどり着いた。  十数人の若者が輪になって座っていた。どうやら青空教室らしい。その中心に僧衣らしい黄色い布をまとった老人が、歌うような語るような韻律で何かを講義している。ヒンディー語かベンガル語か少しもわからないが、不思議と耳に心地よい。  校庭を見渡してみる。四方どこまでも赤土の地面がつづいている。門はあったが塀はなく、巨大な樹木が点々と生えていた。大人五人が手をつないで、やっと届くかというほど、どの木も太く広く枝を広げている。  その木陰で様々な講義が行われている。なかには小学生くらいの子供たちの輪もある。  しばらく待つと老僧の講義が終わったようで、若者たちが三々五々どこかへ去っていった。皆、元彦に笑顔で挨拶していく。  老僧に手招かれ、元彦は木の根元、赤土の上にしゃがんだ。老僧は元彦の名前も訪問理由も知っていた。妹から連絡がきていたらしい。  さて、まずは落ち着こう、と英語で言って老僧は襟を寛げた。先ほどの学生のうちの一人が茶碗を二つ運んできた。元彦の前に、茶碗が差し出される。  ぎょっとして目をむいたが、そこから立ち上る湯気はよく知った香りがした。思わず茶碗を受け取り中を覗くと、緑茶が入っている。はるか遠い国で朋友に会った気がした。  君の妹の置き土産だよ、日本の茶だ。そう言って老僧は美味そうに茶をすすった。馴染み深い爽やかな香りに、元彦も嫌悪感を忘れ口をつけた。  飲み干して、ほうっとため息をつくと、腹筋がゆるゆるとほぐれるのを感じた。どうやらずっと緊張していたらしい。   老僧が歌うように語る。  茶は広く世界へ旅してその土地に合うように変化し、馴染み、さらに遠くへ広がった。中国の茶、インドの茶、日本の茶、それぞれ違う形になったけれど、どこの土地でも一つだけ同じことがある。茶は人の心をほぐしてくれる、温めてくれる。  元彦はいつの間にか土がつくことも忘れて、むきだしの赤土に腰を下ろしていた。老僧は語る。  茶はもてなしの心、おとなう心、だれかを思って淹れるもの。あたたかく、あまく、香り高く。  老僧の瞳は黒い水晶のようにきらめく。元彦はその瞳の中に映る自分自身の姿を見たような気がした。  さて、日本からの客人をふるさとの茶でもてなしたが、今度は私の国の茶を飲んでみないか。  先ほどの学生が新しい茶碗を運んでくる。元彦は素直に手を伸ばし受け取った。今度はチャイが入っていた。複雑なスパイスと甘い砂糖にいろどられたミルクティー。  元彦は老僧の瞳を見つめた。老僧の目に映った元彦の姿は、赤土の上に座り込んで木漏れ日を浴び、ゆったりと居心地良さそうに見えた。  茶碗に口をつける。  舌に広がる甘さに、旅と日焼けの疲れがほろほろとやわらいでいくのを感じた。  なぜか、茶碗の中にほろほろと元彦の涙が落ちた。慌てて上を向く。  木の葉を透かして陽が金色に輝いていた。涙を通して見る木漏れ日は、どこまでも透き通っている。  ああ、きれいだな。そう思った元彦はそのまま涙が落ちるに任せた。人前だというのに洟をずびずびとすすり上げた。  元彦の涙が止まるまで、老僧はひっそりと、ただそこにいてくれた。  もう大丈夫だろう?  老僧にたずねられ、元彦はきらめく瞳で微笑みうなずいた。  帰り際、元彦は緑茶を乞うた。デリーの妹夫婦への土産にするつもりで。    校門を出るとリキシャの少年が待っていてくれた。満面の笑みで喜ぶ元彦に、少年は目を白黒させて驚いている。  来る途中に寄った宿に戻ると、少年も一緒に入ってきた。ここは自分の家で婦人は母親なのだと言う。子供ながらの商売上手に、元彦は思わず吹き出した。  宿はとても清潔で居心地よかった。部屋に案内してくれた少年にそう告げると、はにかみ恥ずかしそうに俯いた。  元彦は夕食を右手だけで食べてみた。指に触れる熱いカレー、片手でちぎるナン。なぜだかワクワクと胸が躍る。自分の手がまったく違う生き物になったような、今まで死んでいたものが生き返ったような気持ちがした。  食事は手で味わうこともできるのだと知った。六番目の味覚で味わう食事は、食後のチャイとともに元彦の体に染み渡っていった。  素敵な夕食とチャイのお礼に、婦人と少年に緑茶を少々プレゼントした。三人でテーブルを囲む。婦人は当たり前のように、茶碗に砂糖とミルクをたっぷり入れた。元彦はめんくらったが、勧められて甘いミルク緑茶をためしてみた。懐かしいのに初めての味わいだ。草原の中で花を見つけたような心持ちになった。  明日、デリーに戻ったら妹夫婦にもミルク緑茶を勧めてみようか。どんな感想が聞けるだろう。  そんなことを思いながら、元彦は眠りについた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!