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第2話 興行会場
徒歩二十分、とスマホの地図にはコンビニから会場までの時間と経路が表示された。見知らぬ土地でもこのGPSアプリを使えば迷うことはない。最短距離で目的地まで誘導してくれるから便利なのだが、いつまで経っても景色は住宅街のままで、この道で合っているのだろうか、と流石に不安になってきたところで、小川に架かる橋が見えてきた。
川には街路樹で覆われた側道が延々と続いている。橋から川を見下ろすと、護岸に沿って生えた夏草が、まるで貴重品を扱う手のように、優しくその流れを包みこんでいる。川幅は広くはないが、緑豊かに整備されていた。緩やかに流れる川面は、樹々の葉をぬった木漏れ陽を煌めかせ、映り込んだ真っ白な雲と相まって、水の透明度を沁々と表顕している。この細流に蛍が生息しているのだろう。
「綺麗だ」と感嘆の言葉が、翔吾の口から思わず飛び出た。感動できる自然美や芸術と遭逢した時、やはりアーティストである翔吾は、素直に昂奮しやすい神経細胞を有している。夜になってこの小川に乱舞する蛍の光を想像すると、心が華やいできた。川のせせらぎに胸の高鳴りが同調し始める。
その鼓動に追いつくかのように、そう遠くはないところから、太鼓と笛を主体とする奏楽の音が聞こえてきた。神楽だ。元来は五穀豊穣と厄除けを願う儀式の時に奏でられる神楽だが、昨今では、地元の伝統芸能としてお祭りでのエンタテインメントとして演じられることは珍しくない。
きっと、この風流な楽器音が鳴っている方向が、蛍祭りのイベント会場なのであろう。道行く浴衣を着た人々も、その音が発せられる方向へ歩いている。翔吾も同じ方向へ足を向けた。
やがて古楽器が奏でる風雅なゆったりした音から、勇ましい三味線の重奏へと演目が変わった。バチを弦に叩きつけて迫力ある大音量を轟かせている。この独特な奏法は津軽三味線の音色だ。けたたましくも繊細な共鳴音が響いてくる。
ここは九州なのに、弾いているのは東北民謡だ。地方での祭事イベントは、盛り上がれる要素があれば、何でもありの余興大会のようなものである。イベントの始まりは、しめやかな神楽で幕を開け、次には、勢いのある津軽三味線で景気づけるステージ構成の順番を、実行委員会が考えたのだろう。
津軽三大民謡の代表曲じょんから節が終わったところで、イベント会場となる公園が視界に入ってきた。サッカーコート一つ分ほどの公園内には、この賑やかな音楽には矛盾しないだけの派手な紅白の幔幕や色とりどりの提灯がたくさん飾り付けられていた。
お祭り会場における定番の露店群は、縦長の公園の両隅に軒を連ねて、長屋のように犇めいている。会場の中央部はバーベキューエリアになっていて、太陽はまだ高い位置から光を放っている時間帯なのに、すでに酒を呷って大いに盛り上がっているグループが何組もいた。
子供が遊べる大型のエア遊具も設置されていて、近隣住民の老若男女が誰でも楽しめるイベント内容になっている。津軽三味線の演者が登壇しているステージは公園の端に位置し、コンロからの熱気で真夏の陽炎のように揺らめいて見える。いや、誰も見てやしない。集まった人々が注視しているのは、バーベキューの肉や露店の飲食物の方だ。ステージからの音楽は、単なるBGMに過ぎない。翔吾が登壇するのも、このステージだ。
(ここで歌うのか)
夢想した蛍の風雅と、現実の俗っぽい催事とのギャップに一瞬は面食らった翔吾だったが、地方イベントでは稀有な事象でもなく、このような局面は何度か経験済みだったので、すぐに気を取り直し、まずは主催者へ挨拶をするために、公園脇にある蛍館へと向かった。
蛍館の廊下には、蛍の飼育を説明するパネルが展示されていた。希少動植物の保護条例に基づき、蛍の幼虫を養殖して毎年放流しているそうだ。またそれとは別に、蛍の光を一年中観察できるように、蛍が棲める飼育環境を人工的に作り出している大型水槽も営造しているらしい。パネルに目配せして蛍育成の概要を脳裏にキャプチャしながら歩いていると、廊下の突き当りに実行委員会の事務室があった。
ドアは開きっ放しで、実行委員会のお偉いさんであろうか、蛍の光とは真逆なまでに光り輝く頭―太陽光線を浴びたつるっ禿の男が、事務所の応接用長椅子に座って、こちら側に背中を向けてタバコを吸っている。頭上に煙を吐き出すその後ろ姿は、まるで地獄谷温泉から豪快な湯気を放ちながら引き揚げられた茹で玉子みたいだ。
とりあえずは、開いたままのドアをノックして、「おはようございます。本日出演の柴丘翔吾です。よろしくお願いします」と、翔吾は業界風に元気よく挨拶しながら入室した。
振り返った禿げ頭は、「ようこそ。実行委員会会長の福田です」と歓待の笑みを浮かべながら、握手の手を差し伸べてきた。新聞に掲載されていた男だ。翔吾も手を差し伸べ、一歩近づくと、酒の臭いが漂ってきた。イベントの実行委員会は、前日までは準備で忙しいが、いざ本番になると、式次第を見守るだけの役職者は、昼から酒を飲んでいる人も少なくない。
「長旅、お疲れさん」
と、福田はビール瓶を持ちながら、翔吾にグラスを渡してきた。連鎖反応で思わず受け取ってしまった翔吾だったが、歌の音程がいい加減になるので、本番前にはアルコールを摂取しないようにしている。
しかし福田は、そんな翔吾の気持ちはお構いなしに、断る隙など与えない絶妙なリズム感でビールを注いできた。すでに翔吾の手元では、トクトクッと爽快な音を立てながら、グラスにビールが満たされている。
(真剣に歌を聞いている観客はいないだろう)
と会場の様子を思いだした翔吾は、「いただきます」と一気に喉へ流し込んだ。赫く太陽のもと、無風状態の道を歩いてきた翔吾の乾いた喉が鳴った。
「旨い」と反射的に無意識に唇が動いた。
昼に飲むビールはなんて旨いんだろう。一杯目のビールは旨いのは当たり前だが、昼のビールはもっと旨い。そういえば、ギターケースを背負って歩いてきた翔吾の背中には汗が滲み、頬には玉状になった汗が浮かんでいた。この汗を見て、福田はビールを勧めてきたのだろうか。それは分からないが、二杯目を注いでくれた。
福田は、人当たりが優しく、一見どこにでもいそうな商店街の会長を思わせる風体だが、メタボ腹とは無縁なすっきりした筋肉をしていた。ピンとした背筋と力強い眼光は、確固たる信念を体現化している様だった。だからこそ、実行委員会の会長が務まっているのだろう。「昨日までは各所からの利己的主張を取り纏めるのに奔走していた、だから今日は飲むぞ」と福田の顔に書いてある、そんな気がした。
事務所は、有りがちなスチール机と応接セットが並べられただけの殺風景な佇まいだが、祀られた神棚が清廉な空気感を湧出させていた。お供えの米と塩の隣りには、音楽イベントの成功を祈念しているのであろうか、なぜかドラムスティックが奉られている。
三杯目の勧めを遠慮した翔吾は、福田へ礼を述べて、出演時間まで楽屋で待機することにした。楽屋といっても個室ではなく、会議室が出演者用の大部屋スペースとして充てられている。このような野外イベントの場合、大御所ならば近くのホテルの部屋を専用控室として借り切るのが通例だが、翔吾のギャラではそれを許す余裕はない。それくらいの出演料の歌唱営業を積み重ねて生活費にしているのが、今の翔吾のプロ活動というわけだ。
「おはようございます」
事務室に入った時と同じように、元気のよい挨拶とともに入室した翔吾に対して、「おはようございます」「よろしくお願いします」と返してくれる出演者や関係者もいれば、会釈だけの人もいる。
声に出して挨拶しないのは、ある程度年齢を重ねたセミプロかアマチュアに多い。どの業界もそうだが、挨拶は重要だ。とくに音楽芸能の神様は、挨拶の出来不出来によって仕事量や質を判断しているのだ思う。明るく振る舞えば仕事が舞い込んでくる。暗いと仕事も寄り付いてこない。
発声練習、楽器の調律、話し声、笑い声。会議室に置かれた長机を思い思いのレイアウトに組み替えて陣地化しているグループ、振り付け確認をしているダンスチーム、ネタ合わせをしている漫才コンビたちが、楽屋を満たしていた。各出演者ごとにコミュニティができ上っているので、独りの翔吾にとっては、かえって気楽だった。
誰も利用していない会議用長机に荷物を置いた翔吾は、ボードに貼られた香盤表のもとへ歩み寄った。地方イベントでは、。当日いきなり出演順が変わっていたり、持ち時間が長くなったり短くなったりしている場合が少なくないからだ。
香盤表と腕時計を確認すると、多少は時間が押しているが、予定通りに舞台進行が流れていることが分かった。翔吾の名前も予定通り、最後から二番目に書かれている。他はローカルタレントなのかアマチュアなのかは分からないが、知らない名前やグループ名が出演時間順にざっと並んでいる。トリは「RAGERS(レイジャーズ)」と書かれていた。
どんな出演者なのだろうと、その場でネット検索したところ、公式ホームページやブログの存在も見つからず、地元出身のロックバンドという以外は分からなかった。
(つづく)
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