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第3話 ロック魂
午後6時半、出番が近づいてきた。日の入り時間が遅い九州の太陽は、斜めに強い光線をステージ上に照射している。ステージ袖に設営されたテントで待機していた翔吾は、司会者からの呼び出しとともにステージへ上がった。ギターと譜面、それに譜面台までも自分で持ってステージ中央へと歩いていく。
折り畳み式パイプ椅子がステージ中央にポツンと置かれ、その前にマイクスタンドが延びている。椅子に腰掛け、観客がいる公園を眺めると、昼に見た光景と同じであった。変ったことといえば、バーベキューの内容が昼食から夕食になったことくらいであろうか。ただし、夜が近くなるにつれて、酒で盛り上がっている来場者の数はかなり増えていた。
その酔客とは別に、ステージ間近には観覧用のパイプ椅子が並べられている。このエリアにいる人こそ、ステージを本気で楽しんでくれる人々だ。しかし見渡すと、着席している観客は五列程度だった。その客席の後方では、コンサート会場でよく見られるスモークではなく、バーベキューからの本物のスモークが立ち昇っている。
司会者が前説を始めた。
「今から十年前、視聴率三十パーセントを超えた当時大人気のドラマ主題歌『愛の風』で一世を風靡した柴丘翔吾さんです。みなさん、大きな拍手をどうぞ」
司会者の高いテンションに反比例した観客の疎らな拍手音は、隙間風となって翔吾の胸をするりと通り抜けていった。
「こんばんは。柴丘翔吾です」とお決まりの自己紹介をしたものの、もちろん熱い声援を送ってくれる人はいない。代りに聞こえてきたのは、「まだ活動してたんだ」「ナツメロだね」「消息不明になってたらしい」「死んだっていう噂も聞いたよ」などと言いたい放題の声がステージまで届いてくる。
(生きてるよ!)と心の中で叫んだ。
大概の一般人は、人気のバロメーターをテレビでの露出量で推し量っている。テレビで見なくなったら、「落ち目」「干された」「終わった」などと風評し、終いには「死亡説」までネットで流布してしまう。目の前の客は、歌を聞きにきたというより、生存確認に来たのだろうか。
持ち時間は三十分だ。誰もが知っているカバー曲から始めて、ラストは自分のヒット曲で締める予定だ。さっさと終わってしまいたいと思う一方で、客席の連中だけでなくバーベキューの連中をも、歌で注目させてやりたいとも思う。
誰もが自分に呼応してくれた昔のコンサートとは違う。見向きもしない客を呼応させてやるという一種の挑戦だ。今はそれをモチベーションにして歌唱ライブを続けている。この想いが無ければ、閑古鳥が鳴く場所で歌なんぞ歌ってはいられない。
しかし、自らの心を焚きつけて歌い出した翔吾の目の前には、幼児に焼きそばを食べさせているママ、ビールを旨そうに飲んでいるパパ、顔より大きな綿あめに見え隠れする女の子、戦隊ヒーローのお面を被った男の子、耳が遠そうな年配者らが着席していて、ここはもはや、飲食物持ち込み可の休憩処と化している。この状態で歌い続けることは、惨めさと哀れさが渦巻く滝壺に落とされたに等しい。
(早く終わりたい)
西日が赤く色づいてきた。綺麗な夕陽なのだろうが、今の翔吾には寂寥の夕陽にしか見えない。赤い光の粒子は、侘しさとなって翔吾の胸を貫く。遠くでカラスが群れをなして飛行している。「かー」と輪唱している鳴き声は、さながら「かえれ」コールに聴こえる。
(早く終わっちゃおう)
予定より二曲ばかり省いて、一発屋のナツメロと揶揄された曲を歌い出す―と、突然、客席の空気が変わった。「懐かしいね」と、ハッと思い出したように、何人かの観客の顔が輝き出した。ドラマ放送当時は恋人同士だったのだろうか、幼児を挟んでこちらを見ている夫婦が一緒に歌ってくれている。
歌は、記憶を懐古させるトリガーとなって、あの頃の自分を蘇らせてくれる。楽しかった事も、悲しかった事も、みんな良い想い出として、今に生還る。曲を終えてステージから降りる翔吾には、登壇した時よりは多めの拍手が届いた。ごく少ないが自分の歌に共感してくれた客がいたことで、翔吾の心は救われた。
「持ち時間を巻いてしまって、すみません」
と、翔吾は関係者へ謝意を述べたが、「あ、そうでしたか」と全く意に介していなかった。逆に、「押した時間を巻いてくれて有難い」と、舞台進行上は結果オーライになったようだ。
今の翔吾は、今日のようなステージを重ねて生きている。ギャラを貰っているのだから、肩書はプロミュージシャンと言って間違いないが、その実態は中央から都落ちしたドサ回り興行師と言った方が相応であろうか。
何はともあれ、ひと仕事を終えた翔吾は、いったん楽屋へ戻った。賑やかだった楽屋には、もう誰もいない。規則正しく整列された長机が、一日の終わりを無機質に告げていた。窓から見える太陽は、山の裾野に飲み込まれ始めている。
橙色から緋色へと彩度を深めた太陽の欠片は、最後の光を天空に放つや、一瞬でその姿を晦ました。代りに、宵の明星が瑠璃色の空に存在感を高めて輝いているのに気づく。
金星も月と同じく満ち欠けする天体だ。旋廻して、いつかは過去と同じ位置に戻ってくる、満ちている時もあれば欠けている時もある。人生も同じだ。天体の織りなす雄渾な転生に、何か勇気づけられたような気がした。
楽屋に荷物を置いた翔吾は、会長に挨拶するために事務室へ立ち寄ったが、室内には遮光カーテンが降ろされ、暗闇と化した空間には人の気配はなかった。トリのバンド・レイジャーズ出演時間が迫ってきたので、その足で公園へ戻って、露店のビールを飲みながらライブを楽しむことにした。
ステージで歌うことは、どんな状況下にあっても、やはり緊張するものだ。冷えたビールは弛緩剤となって神経を解きほぐしてくれる。ビールを買って、すぐさま喉に流し込むや、「はあー」と嘆息が無意識に飛び出た。最高の一瞬だ。昼に飲むビールは解放感の旨さだが、ひと仕事を終えた後のビールは充足感の旨さだ。
公園の片隅のベンチに腰を落ち着かせて、二口目を口に含みながら公園を見渡した翔吾は、人の数が減っていることに気づいた。いや、さっきまではステージに無関心だった観客が、そのステージ近くに集約され始めているのだ。
すでに数百人ほどの観客が、スタンディング状態でステージ方向へ顔を向けたまま待機している。陽が沈み、茜色となった空が、観客の熱気を表わすかのように、その背中を赤銅色に染め上げている。ほとんどが男性客だ。年齢層は中高年者が多い。
(レイジャーズ、何者だ?)
ステージに運び込まれる機材を見ると、やはりロックバンドなのだろう。マーシャルアンプが運び込まれ、ドラムセットが組まれ始めた。と、ドラムを持ち込んでいる人に、翔吾の目が釘付けになった。なんと会長である福田がシンバルやスネアを運んでいるのだ。
人件費削減なのだろうか、などと邪推していると、すぐにすれは間違いだと判った。ドラムセットに座った人は、他ならぬ、福田本人だったからだ。トリを務めるバンドのドラマーだったのだ。ビールを注いでくれた時の好々爺的な柔和さは消え失せ、鷹のような鋭い眼光をもつロッカーへと顔付きは変貌している。
スティックを持った福田の両腕が高く上がった。そして瞬時に振り下ろされると、シンバルの大音量が轟然と公園内に響き渡った。間髪を容れず、ドッ、ドッ、ターン―と、バストラムとスネアでリズムを刻み始める。厳つい男性客たちは、その音に支配された操り人形のごとく、リズムに体を委ねている。
後ろから見ても、高揚してきた彼らのテンションが感じ取れた。ドラムのリズムがエイトビートに展開し始めると、ベースギターが大地を震わせる低音でリズムインしてきた。次に、歪んだエレキギターが脳天をつんざくようにセッションし始める。薄暮の空色とは真逆に、観客の熱気は旭日昇天の勢いだ。
逐って、ステージとは反対方向―公園入口付近から、スロットルを上げて空噴かしたバイクの爆音が轟いてきた。その音の方向を一斉に振り向く観客につられて、同じ首の動きをした翔吾は、また新たな場景に目を射られた。バイクに乗っていたのは、彼―空港で荷物を取り違えた時の彼が、ハーレーに跨って、その存在を観客に刺衝していたのだ。
観客は拳を振り上げて、雄叫びと気焔を彼に送っている。観客の反応から、彼がこのバンドのボーカルということが判った。スピーカーからの重々しい音響に加えて、重厚に鳴動するハーレーのエンジン音とがミックスされた地面の雷響は、骨伝導となってその場にいる人間の脳髄を震撼させている。見事なまでの登場演出だ。
公園のド真ん中を低速で進み始めたハーレーは、自らの花道をつくるように、人の波を左右へと拡散させた。観客は彼に向って、ひと際大きく疾呼している。翔吾は、彼のカリスマ性に感化され始めている自分を憶えた。ステージに垂れ下がっていた紅白幕は、いつの間にか大黒幕へと替えられ、バンドから放たれる威圧感を倍加させていた。
やがて、ステージ袖に到達した彼は、ハーレーを降りてステージへと駆け上がった。すると、バンドサウンドはノリを煽っていた一律なビートから、縦ノリの曲イントロへと転じた。すると観客は一斉に、頭を回転させてヘッドバンキングする者、頭を小刻みに烈しく上下にシェイクする者、吼えながら何度もジャンプする者らが続出し始める。
さらには、一人、二人、三人……と雪だるまが大きくなるように成長した群衆は、モッシュと呼ばれる押し合い圧し合い状態の塊を形成し始めた。もはやレッドゾーンに突入したエンジンのように猛り出した無数の人頭は、荒れ狂う海の三角波のように上下左右に乱舞している。祭りだ。まるで喧嘩祭りの様相だ。
歌い出した彼の歌詞は聴き取れない。だが、インパクトある単語が、メッセージ性を帯びて、胸を突き、心を穿つ。
威張ってんじゃねーよ
命令するんじゃねーよ
従うつもりはないぜ
素直に生きてるだけだ
きっと、媚びるような生き方なんかしてられるか、という趣旨の歌詞なのだろう。社会に対する鬱積したフラストレーションを、彼が代弁して謳っている。伝達された反骨魂を共感し合った観客は、その場で彼の従僕となり、直情径行に興奮度を増幅していく。
バンドは、ロックンロールか、パンクなのかグランジか……いや、ジャンルという一括りにはできない超個性のサウンドが、ここにある―とレイジャーズが啓示している。人間の本音を謳っている彼の攻撃的なロック魂に、一気に凌駕された自分がここにいる―と翔吾は自覚した。
ステージ上の彼は、悍ましく威嚇的な鎌首のような身構えをしたかと思えば、嫋やかに繊麗的な鶴首のような振舞いを見せたり、流麗だが暴虎馮河の多彩な将となって、今ここにいる輩どもを従えている。
(生き様だ、ロックは生き様だ)
いやロックだけじゃなく、音楽は人を感動させる力がある。歌詞コンセプトを観衆に届ける精神と、表現者としての魂―これらが自分に足りなかったのだ、と本質的かつ抜本的なことを、翔吾は窺知させられた。
翔吾のデビュー曲は、翔吾が作詞作曲した覚えやすいキャッチ―なメロディーを、当時流行りの音楽プロデューサーが「売れる」ように編曲アレンジしたものだった。タイアップしたドラマの放送時間の都合上、主題歌の時間尺は約九十秒以内という制約つきだったため、タイアップのために曲の展開を改めて、歌詞をドラマシナリオに合わせる必要もあった。
初めてドラマを見る視聴者が一発で覚えられるようなインパクト重視の曲調というテレビ局側の意向もあった。それゆえ、個性となるオリジナリティの要素はどんどん減らされ、好き勝手にはレコーディングできないという不自由な条件のもと、レコード会社や音楽プロデューサーの指示に従って完成させたのが、デビュー曲だったのだ。
音楽を通して自己を表現する「アーティスティックなミュージシャン」というより、今思えば、単なる「商業音楽の歌い手」という存在に過ぎなかったのだ。だから、曲が飽きられると、必然的に歌い手も忘れ去られる。それは、売上至上主義のJ・ポップロックジャンルでは珍しいことではない。つまり、翔吾もその駒の一部だったというわけだ。
(つづく)
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