第6話 実現への意志

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第6話 実現への意志

 午後六時、開店と同時に丈司は、ターンテーブルへレコード盤を乗せて、「手でレコード盤に針を落とすこの瞬間のちょっとした緊張感が好きなんだ」と言った。曲はジミヘン(ジミ・ヘンドリックス)だ。開店の景気づけとして、最初はいつもジミヘンを流すそうだ。 「ジミヘンが好きなんですか」と翔吾は訊ねた。 「俺のロック人生の原点だな」と丈司は言った。「俺がまだガキの頃、ウッドストックのライブ―、知ってるか? アメリカで四十万人も集まった伝説のライブ、そのトリを務めたのがジミヘンだ。テレビで見た奴の演奏は、ロックの神が降臨していると思ったね」 「ロックギタリストの始祖鳥的存在でしょうか」 「始祖鳥にして、今もって不沈艦だな」  ロックグラスの氷が溶けて、カランと音が鳴った。ジミヘンの攻撃的ギターサウンドが、アルコールと一緒に体内を駆け巡った。 「この時期のロックミュージシャンは、みんな長髪でしたね」  翔吾が何気なく呟くように言うと、 「なぜ長髪だったと思う?」  と、いきなり丈司から質問が飛んできた。 「長髪がカッコ良く見えた時代なのか、単なる流行りだったのか……」  と、翔吾が明確な返答に窮していると、丈司が時代背景から教えてくれた。 「ベトナム戦争が激しくなって、アメリカでは徴兵制も始まった1960年代、反戦運動の一環として、男が長髪にしていたんじゃないか、と俺は思うんだ」 「反戦ですか」 「そう。兵隊の坊主頭に対抗しての長髪、軍服に対抗してのジーンズだ。だから、長髪とジーンズで反戦の歌を唄うのは、政府が決めたことに対する抗議運動だったと思うんだ」  もっともな想察だ、と翔吾は感心した。何が常識で、何が非常識なのか。それは多数決で多い方が常識となってしまう。だから、戦争賛成の議員が過半数を占めれば、好戦的な国家が生まれ、反戦派がマイノリティの世の中になってしまうのだ。これでは何が正しいのか分からない。 「理不尽な規準に対抗していたのがロックだった、というわけですね」 「ところが、ベトナム戦争が終わった70年代後半から、短い髪を逆立てたパンク連中が、鬱積した社会システムに唾を吐きかけるようなことを歌い始めたけど、主義主張というより、生き様をファッション化した連中も多かったな。平和な世の中になって、最近じゃ、曲アレンジだけロック調にして、『I LOVE YOU』なんて歌っているバンドもいるから、歌謡曲と変わんねーロックになっちまったよ」  恥ずかしながら僕の歌もそうでした―と言いかけて、翔吾は何も関係ない方向を見ながら、同意するように、ただ頷いた。  レコード針は、最後の曲の音溝をなぞっていた。 「何かリクエストは?」と丈司が聞いてきた。  翔吾が「丈司さんが無人島に持っていきたい一枚を」とリクエストすると、 「今かかってるやつ」と丈司は言った。。  すかさず翔吾は、「それでは、棺桶に入れたい一枚は?」と思わず言ってしまった。 (ヤバッ)と凍りつく翔吾。  丈司は、意に介したのかしてないのか、変わらぬ表情のままタバコをくゆらせて、バーボンのオンザロックを飲んだ。ポーカーをやったら全戦全勝するのではなかろうか。それほど丈司の表情から心情を読み取るのは難しい。  曲が終わると、レコードの回転は止まり、針は自動的に元の位置に戻っていった。それを合図としたように翔吾は、 「丈司さん、死ぬのって、怖くないですか?」  と唐突に訊ねた。丈司の性格を考えると、オブラートに包むよりも、単刀直入に訊いた方がいい。そう思った。 「怖いとは思わない」と、丈司はあっさり答えてくれた。「逆に、楽になると思う」 「楽にですか?」 「寝るのは、好きか?」 「好きです。みんな好きだと思います」 「死んだら、ずっと寝てられるだろ。好きなことを一生できるんだ。こんな楽なことはない」  なんて楽観的な人なんだろう、と翔吾は思った。でも、死ぬことは「無」になることではないか。肉体は存在していない。果たして、黄泉の国とは存在するのであろうか。宇宙の果てがどうなっているのか分からないように、考えれば考えるほど「死」というものが分からなくなってきた。酔いも回ってきた。  何から何まで丈司は、翔吾が今まで出会ってきた人間とは異次元な存在だった。翔吾が卒業した大学は、付属小学校から内部進学してきた受験戦争を知らない平和な学生が多かったし、しかも裕福な家庭の子女が大半だった。良く言えばスマートなのだが、率直に言えば過保護な世間知らずが多かった。だから、大学から入学した翔吾にとっては、その学風に馴染むのは難しかった。  唯一、気持ちを同じにして学生生活を謳歌できた仲間は、軽音部の学生だけだった。しかしその軽音部の連中と丈司を比較すると、太陽と北風くらいに真逆な存在だ。未知なる規格外の丈司に、翔吾はますます魅了されていった。  ジミヘンの後は、丈司が影響を受けたというバンドのレコードをかけてくれた。ジミヘンは脳内を砲撃するような攻撃的サウンドだったが、レッドツェッペリンは骨に響く重戦車サウンドで、ディープパープルは高速機銃掃射砲のようであった。  ジミヘンの来日は実現しなかったが、丈司はレッドツェッペリンもディープパープルも日本武道館での来日公演を見たそうだ。当時の丈司はまだ中学生で、武道館でロックバンドのライブを見ることに憧れて、同級生の福田と一緒にわざわざ上京したそうだ。  大音量で聴くアナログレコード盤の音は、とても気持ちがいい。CDはボリュームを上げると高音域が耳に痛いと感じる時がある。それに対して、レコード盤からの高音域は、音楽の繊細さとして脳髄に優しく伝導してくる。まるですぐ近くで演奏しているような臨場感もある。  レコード盤とCDとで感じる聴感上の違いを、率直に丈司に言うと、  丈司は、「デジタルとアナログレコーディングの物理的違いはあるけど、最近はパソコンで音程やリズムを修正加工した音楽ばかりで、命を吹き込んだ録音じゃない。だからアーティストの息吹が感じられないし、人間性も伝わらない。機械で作ったおにぎりを美味しいと思うか? それと同じだ。だからそんな音楽を聴いても全然感動できないし、CDが売れなくなった原因でもある、と俺は思うよ」と持論を展開した。  物心ついた時からCDが音楽媒体だった翔吾にとっては、レコード盤から伝わる音は斬新かつ刺激的だった。人間の耳には聞こえない周波数帯をカットして収録されたCDに対して、レコード盤は録音スタジオの空気の震動まで収録されているように感じられた。アナログで録音され、アナログ媒体から聴く音楽は、ノイズも噪音となって耳を膜動する。心地がいい。  次は、ライブレコードをかけてくれた。ディープパープルの武道館ライブ盤だ。 「武道館でライブをやるのが、レイジャーズの夢だったな」と、丈司はジャケットを両手で丁寧に持ちながら低い声で呟いた。  ロックバンドにとって、日本武道館公演は一つの大きなステイタスだ。観客キャパシティが約一万人の武道館でライブをやることは、それだけの興行規模をもったロックバンドとして評価されたことであり、「武道館」という言葉はすなわち「聖地」を意味する。 「太陽のない世界で虹を輝かせるような夢物語だな」と丈司がさらに言った。  レイジャーズ武道館ライブは、現実的には確かに不可能なことだ。しかし、一度だけ武道館公演を経験したことがある翔吾は、武道館のステージから眺める観客席の絶景を、丈司にも見せてあげたくなった。  三百六十度に広がった二階まである客席に取り囲まれステージに立つと、その観客席はまるでナイアガラの滝を下から覗いたような荘厳で圧巻な人間のうねりとなって見えてくる。全方位から視線を浴びて歌う時のエクスタシーたるや、武道館ならではのボーカリストとしての快感なのだ。  それを丈司にも体験してほしいし、何よりもそのステージで歌う丈司を、翔吾は見たくなった。蛍祭りで見たファンの狂喜乱舞が武道館規模で実現したら、それはロック史上に残ることじゃなかろうか。そう思えば思うほど、武道館に立つ丈司の姿をますます見たくなってくる。 「やりましょう」と、後先を考えずに、翔吾は口走った。  次の日、閉じた目蓋に照射する太陽光線が、翔吾を目覚めさせた。すでに時刻は昼だった。頭が痛い。ジミヘンのギター音が、まだ脳内を砲撃している。飲み過ぎて朦朧とした身体へペットボトルの水を流し込みながら、翔吾は昨夜の会話を思い出していた。  酔っ払った勢いで、大きな夢をつい語ってしまうことは誰にでもある。昨夜の翔吾も酔いに任せて、武道館でライブするレイジャーズの雄姿を夢想し、「武道館公演、万歳!」などと、後からやってきた初期酩酊状態の常連客と一緒になって盛り上がってしまった。たぶん、酔っ払いの戯れとして、丈司も本気にはしていないだろう。  しかし、聖なるステージに立った丈司が、その鬼哭啾々たるボーカルで、会場の全方位にいるオーディエンスをノックアウトする姿を見たい、と思ったのは嘘じゃない。朽ちた翔吾の音楽魂を再び研磨してくれた丈司には、感謝の印として「丈司の夢を実現」させてあげたいし、残り少ない丈司の人生に最高のプレゼントをしたい、と本気で思ったのだ。 (果たして、どうすべきか―)  武道館ライブは、極論を言えば、金を出せば誰だってできるだろう。しかし重要なことは、客席をファンで埋めることだ。招待客ではなく、有料の客―つまりレイジャーズのライブを見るためにお金を払う客を一万人集めることは、CD化も実現できないレイジャーズにとっては、まさに虹をつかむような話だ。  窓の外に広がる晴天の空を見た翔吾は、部屋の窓を開けて、太陽に手をかざして見た。口に含んだ水を霧吹きのように吐き出すと、手元にはしっかりと虹が表れた。 (つづく)
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