第1話 一発屋の興行

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第1話 一発屋の興行

 耀く紅緋、煌めく深青、鮮やかな萌黄。  極彩色のムービングライトに燦爛と照らされたステージへ、満員のオーディエンスから湧き起こったアンコールに応えるために、ボーカリスト柴丘翔吾は、両腕を高く広げてステージ中央へと歩みを進めた。  響めく幾千もの観客、前奏に律動する喝采、拍節に同調する挙揚。  重低音の波動を織りなすドラムとベースギター、歯切れのよいエレキギターの金属的カッティング音―に歓呼する観客は、翔吾の登壇とともに、さらに嬌声を高めて最高潮の悦喜に到った。  運が良かった。大学で軽音楽部へ入部した翔吾は、そこで幾つかのオリジナル曲を創り、部内の定例ライブで発表をする程度だったが、力試しのつもりでメジャーレコード会社主催のオーディションへ応募したところ、とんとん拍子でグランプリを獲得し、若手人気タレントが主演するドラマ主題歌タイアップという熨斗紙つきでデビューすることになったのだ。  ドラマの高視聴率と連動するように主題歌の評判も急上昇し、レコード会社の宣伝体制は、いわゆるイチ押し新人として、全国規模での大量告知施策―地上波テレビでの集中スポットCM、街頭ビジョンでのミュージックビデオ放映、FM放送局でのヘビーローテーション、雑誌への広告出稿など―が功を奏し、CDシングルは売上チャート初登場第1位となり、累計販売枚数は一か月でミリオン超えとなった。まさにシンデレラストーリーとアメリカンドリームを一気に成し得たというわけだ。  音楽業界においては、CD売上実績がアーティストパワーのバロメーターだった。そのCDセールスが好調であればあるほど、音楽ビジネスの全ての歯車は円滑に機能し始める。売上を稼ぐ翔吾は、所属レコード会社の基幹アーティストとして位置づけられ、音楽ビジネスを取り巻く関係者からの期待値は瞬く間に最大級に達した。  デビュー直後にして一気に増えたファンの数は、全国主要都市でのアリーナクラスでのコンサートツアーを実現させた。このツアーのフィナーレを迎えて絶頂状態にある会場内のすべての視線は、ピンスポット光源によって赫々と浮かび上がる翔吾だけに向けられている。  翔吾が手を挙げれば瞬時に同期して観客の手も挙がり、呼び掛ければ刹那に呼応してくる。これは売れたミュージシャンだけが知り得る快楽だ。まるで一国の王様か皇帝にでもなったかのように、この場にいる全員を隷属化させたような錯覚に陥り、活性化された脳内モルヒネは中枢神経を自己陶酔の世界へと導いていく。この眩耀とした音楽人生の頂は、まるで下山することのない永遠の稜線のように観ぜられた。  その後の音楽活動は、売上もファンの数もすべてがデクレッシェンドしていくなどとは微塵も思わずに……。  六月第一週の日曜日、北九州の地方都市で行われる催事イベントに出演するために、翔吾は羽田空港へと向かうモノレールに乗りこんだ。休日だが早朝なので乗客はまだ疎らだ。  始発の浜松町駅からコンクリート製のレールをゆっくり滑り出した跨座式の車両は、湾岸地帯に差し掛かったところで速度を上げ始めた。  今も昔も変わらない芝浦港南地区の運河は古色蒼然のままに不透明な水面を湛えているが、左右を見渡すとインテリジェントオフィスビルやデザイナーズタワーマンションが計画的に立ち並んでいる。このエリアが急成長し始めたのは十年ほど前―翔吾がまだ人気絶頂の時期―からだろうか。 (あの頃は輝いていた)  と翔吾の胸中には、懐旧の念が広がり始めた。 「デビュー曲・イズ・ベスト」という言葉がある。  長いアマチュア活動の間に創った曲のうち、瓢箪から駒のごとく素晴らしい楽曲が生み出されることがある。この曲が評価されて一気に売れることもあるのだが、次に発売する楽曲は駄作になることも少なくない。「ネタ切れ」というやつだ。  不発に終わったセカンドシングルとともに忘れ去られてしまうアーティストが多いのは大概がこのパターンである。翔吾もまさにその通りであった。セカンドシングルの売上は低迷し、同時発売されたアルバムは大量の不良在庫つまり返品扱いとなった。  この売れ行き不振を如実に示すものとしては、急激に落ち込んだコンサートの動員であった。デビュー時は日本武道館や関東近郊のアリーナクラスの会場を即完売できたのに、その後は数百人規模のホールでさえ満員にできないほどの人気凋落ぶりであった。  これは、高視聴率ドラマに紐づいた主題歌のキャッチ―なメロディーが視聴者の心を捉えたのであって、アーティスト本人が高評価されたわけではない―という顕現であった。  延いては、レコード会社の決算数値に貢献できなかった責任なのか、これ以上は良質な楽曲を生み出せないだろうという判断が下されたのか、その理由は明示されなかったが、レコード会社との契約は更新されず、時を同じくして所属事務所からも契約延長の打診は一切なかった。すなわち、その時点でメジャーアーティストという帝冠は剥奪され、現在に至っている。  いわゆる「一発屋」というレッテルを貼られたわけだが、デビューと同時に山頂に登りつめたおかげで、それからの音楽活動はひたすら下山道となってしまった。山頂が高ければ高いほど、それだけ谷は深くなる。今の自分は何合目まで下山しているのだろうか。  しかし一発当てるだけでも大変な業界なのだから、それはそれで栄誉あることだと思うし、そのヒット曲の存在のおかげで、大学を卒業してから就職しないままに十年経った今現在でも、瑣少な印税と歌唱営業でなんとか食い繋いでいられるのは、倖せと言うべきなのだろう。そう思わなければやってられない面もあるのだが……。  自分の衰勢とモノレール沿線の隆盛との相反的な景色を眺めながら物想いに耽っていると、不意に地下に潜った車両のガラス窓は漆黒の鏡面と化し、そこには現実世界で憂念している自分の姿が映射され始めた。それを見て我に返った翔吾の耳元には、速度を落とす車両音とともに、降車する空港ターミナルビル駅への到着アナウンスが流れてきた。  搭乗した新興航空会社の最新鋭中型機は、セールスポイントにしている広い座席間隔ゆえに、高身長の翔吾にとっても快適な空の旅となった。定刻通りに着陸した飛行機からボーディングブリッジを渡って、到着ロビーへ降りるとすぐに手荷物受取所があった。  程なくして取扱注意のシールが貼付されたギターハードケースがベルトコンベアに乗って近づいてきた。その取っ手を掴んで持ち上げた翔吾は、その重さの違いを咄嗟に感じて「自分のギターじゃない」と再びケースをコンベアに戻そうとした―が、その瞬間、背後から「俺のだ」という小声だが低くて力強い声が掛かり、翔吾の手はぴたりと止まった。  振り返ると、ブラックレザーを全身に纏ったオールバックリーゼントの男が視界に飛び込んできた。年齢は翔吾の父親ほどであろうか。しかし、筋金入りの不良ハードロッカーという威風を感じとった翔吾は「すみません。同じケースだったので間違えました」と目礼しながらギターケースを丁寧に差し出した。  それを受け取った彼は「ありがとな」と抑揚のない朴訥とした声で謝意を述べた。些かぶっきら棒な返礼にも聞こえたが、この男から醸し出される生き様から察知すると、彼なりの慇懃な挨拶だと感じ取れた。ギターケースを抱えた彼は、踵を返して出口方向へと歩みを進めていく。  その後ろ姿から放たれる独自のオーラは「ロックすなわち社会的な反抗」だった世代の品性を物語っている。それは音楽をやっているからこそ理解できる同じ周波数をもつ者同士の暗黙知とでも言えようか。  やがて自分のギターケースをピックアップした翔吾は、空港ビルの外に出て路線バス乗り場へと向かった。周防灘沖に浮かぶ海上空港として造られた北九州空港には、薄暑の陽射しが眩く降り注ぎ、梅雨入り前の涼しい海風が心地良く吹いていた。停留所には歓待の合図とばかりに乗車扉を開放したままのバスが、既に乗客を待ち構えている。  大型旅客機が就航しないローカル空港をターミナルとするバスは、ほとんど満員になることはないのだろう。空港というより、どこか田舎の駅前を発着するバスのような長閑さが漂っていて、二人掛けの狭い椅子を独り占めして使えるほどの乗車率だった。  空港を出発したバスからの眺めは、高層階のビルといえばビジネスホテルが建っているだけで、繁茂した雑草が多い埋め立て造成地は、人工的荒野の体を成していた。この人工島と九州本土を結ぶ約二キロの海上橋を渡ってから、イベント会場近くのバス停までは約四十分の道程だ。リハーサルもマイクテストもないお祭りのイベントなので、ぶっつけ本番の興行だ。地方の営業イベントは大概こんな感じである。  メジャー契約アーティストだった頃は、地方コンサートの際はいつも現地のコンサート会社スタッフに丁重な送迎をしてもらっていた。交通手段や移動時間などを気にすることもなかった。まさに上げ膳据え膳状態で、ステージ上のパフォーマンスだけに集中できる環境下でミュージシャン活動に専念できた。  今はそんな大名暮らしのような活動は出演ギャラから算定すると有り得ない夢物語だ。アコースティックギター一本で伴奏して昔のヒット曲を歌う―これが現状の歌唱営業スタイルとして定着し、出演交渉から雑用までのマネージャー業務を含めて全てを独りでこなしている。  地域祭りや街おこしイベント、さらには桜祭りや紅葉祭りなどの季節イベント出演は、日本全国津々浦々に年中おこなわれているし、とりわけ地方では「あの曲知っている」というネームバリューは、わりと集客になるらしく、おかげ様で地方からのイベント出演依頼は途絶えたことがない。  今日のイベントは、蛍と共生する街づくりをテーマとした地域振興施策として、蛍が飛び交うこの時季に毎年催されていて、神楽や民謡などの伝統芸能から、地元アイドルグループのパフォーマンスや演歌歌手の歌謡ショーなど、人集めの一環として様々なステージイベントが昼夜催されているらしい。  清い水でしか生きられない蛍が棲む自然環境下での歌唱―というロマンチックなイベント進行を勝手に頭に描いていたが、そろそろ会場近くの停留所のはずなのに、バスは往復六車線もある国道をひたすら走り続けている。交通量も多く、沿道には量販店や高層マンションが濫立している。自然保護と都会化という二律背反を成り立たせるのが、今日でいう共生という意味なのだろうか。  バスを降りると、地方都市にありがちな大きな駐車場をもつコンビニエンスストアが目の前にあった。地元の新聞とホットコーヒーを買って、イートインスペースでしばし休息をとることにした。出演時間まではまだ余裕がある。  翔吾は、地方イベントに来た時は、今そうしているように、地元の新聞を読むことにしている。ネットの電子版ではダメだ。なぜなら、地元の小さい出来事でもしっかり記事になっているし、初めて訪れた土地の匂いを感じることができるからだ。  新聞を開くと、地域面の比較的大きな欄に、「昭和の高度成長期の乱開発によってドブ川となった河川を、地域住民と行政とが一体となって水環境を整備してきた結果、近代化された住宅地を貫流する川に、蛍が翔び交う綺麗な水流を取り戻した」と、蛍祭り実行委員会会長からのコメントが顔写真入りで紹介されていた。 (つづく)
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