応援

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  応援  ゆい子  日曜の夕方、ドアホンが鳴った。リビングの壁についているモニターを見ると、お隣の孝仁と、孝仁のお母さんだった。  玄関から来るなんて、珍しい。何事?おばさんはいつも勝手口から本当に勝手に入って来るし、孝仁はたいてい、二階の孝仁の部屋の窓を開けて、私を呼ぶのに。  私は玄関の扉を開けた。 「どうしたの?改まっちゃ・・・・」  言いかけて、言葉が消えた。  おばさんがきれいなワンピースにパンプスだったから。孝仁がデートに行くみたいにカジュアルファッションをセンスよく決めていたから。そしてなにより、ちょっと離れて立っているスーツ姿のダンディな男性と、アイドルみたいにきれいな二十代半ばくらいの女性が頭を下げてきたから。  孝仁のお母さんはシングルマザーだった。孝仁がまだ小学校にあがる前、孝仁のお父さんは病気で亡くなった。幼かった孝仁はあまり覚えていないと言っている。同い年の私はもっと覚えていない。  孝仁はずっと、口癖のように 「お母さんのことは俺が支える」 と言ってきた。  そのわりには友達と喧嘩をしておばさんが学校に呼び出されたり、家庭科のある日の朝になって、ほうれん草を持っていく担当になっていると言い出しておばさんを焦らせたりしていたが。  孝仁がおばさんを支えると意気込むたびに、私は 「じゃあ孝仁のことは、私が応援する。どんなときでも絶対味方になる」 と誓ってきた。  孝仁はいつも嬉しそうに笑ってくれた。    その日、おばさんは再婚の報告に来てくれたのだった。  紹介されたダンディなおじさまとは職場でずっと一緒に働いてきた仲で、気心が知れた間柄だという。 「孝仁が二十歳になってから再婚しようって言ってたんだけどね。仕事にかまけてたら孝仁、二十三になってたのよねー、あはは」  おばさんは照れ隠しにどうでもいい話を繰り返した。  見かねて孝仁が言った。 「で、うちは持ち家だからさ、これからは四人で隣に住むから。よろしくお願いします」  四人は丁寧に頭を下げてくれた。  孝仁が遠くに引っ越してしまうわけではないんだ。  私はホッとした。しかし二人の関係は微妙に変わってしまうだろう、という予感めいたものがあった。  かすみさん、と紹介された二つ年上のアイドルのようにきれいな女性は、孝仁の好み、ど真ん中だったから。  養子縁組はしなかった、とおじさまは言っていた。ということは、かすみさんと孝仁は姉弟ではなく、ただの同居人ということだ。  私の顔はひきつっていなかっただろうか。  私は幼馴染みの孝仁のことが、実はずっと好きだった。  孝仁が二階の自室の窓を開けて私を呼ぶ。用事があるわけでもないのに、呼ぶ。そしてたわいもない話題で盛り上がる。  ただそれだけの時間。それが私の幸せな時間。私だけが孝仁にとって特別でいられる時間。  私が孝仁に異性として特別な感情を抱いていること知られたら、この至福の時間はおそらく消滅するだろう。孝仁にとっては、私はなんでも話せる幼馴染み。そういう立ち位置で、大切な存在。  私は今までに二度、孝仁の恋愛相談につきあった時期があった。一度目は小学六年の夏。二度目は高校二年のときだった。この二度目のときは、私も相当辛かったが、孝仁の辛さはもっとだったと思う。  孝仁は当時同じクラスだった、眼が大きすぎるくらい大きい、かわいい系の女子に一年間片想いをしていた。  夏休み前のテスト期間、夜中まで勉強していた私の部屋に向かって 「りーん、勉強はかどってるかー」 と孝仁の低くて太い声が届いた。  数日に一度、もしくは連日、この声が私の名を呼ぶ。私はそれをずっと待ちわびて暮らしていた。バレないように気をつけながら。 「孝仁は?」  私は窓から顔を出した。 「明日の英語、ダメかも。三問目がもう訳せない。で、もう十二時」  孝仁はもともと勉強に対して意欲はない。  私は問題集を眺め、やっぱり、と思った。 「それ、使役の動詞。『~させる』って訳すんだよ」 「使役?マジか。引っかけじゃんか」 「引っかけじゃないよ。ちゃんと使役の動詞を理解してるか確認するためだよ」  本当はそんな話が目的じゃないくせに。 「学年順位が低いと、フラれちゃうよ~」  私は軽い口調で話を振ってみたが、孝仁にはこたえたみたいだった。 「りんと違って、俺、勉強できねえからなあ。フラれる以前、告白ができない」  告白、ずっとしなければいいのに。 「じゃあさ、夏休みのあいだ、本気でがんばってみたら?私、応援するよ。できる協力は全部する。それで夏休み明けのテストで学年十番以内に入ったら告白するとか」  私は心とは裏腹な提案をした。  孝仁の恋愛の対象にはなれない。そんなふうに見てもらえる日は来ない。だったら孝仁を一番応援する特別な人でいたい。 「勉強かあ。めんどくさいな」  おい、そこはがんばりどころじゃないのか。 「球技大会でいいとこ見せるほうが確実だな」  孝仁は数秒で、夏休みに私と毎日勉強するという選択肢を捨てた。  孝仁はそれからも頻繁にぐずぐず片想いの愚痴を窓際で漏らしていた。 「映画に誘ったらさ、『家で観る派』って断られた」 とか 「初詣、みんなで行かない?って声かけたら、彼女だけ行かないんだってさ。『寒いから』って。結局男ばっかり十人で初詣って。夢がない」 とか 「バレンタイン、マジで期待してた。最近、結構話せるようになったから。義理でもいいからほしかった。なのにさ、女子同士で交換してんの。なに、友チョコって。ホント、なに?」 とか。  こんなぐあいに、イベントは完敗していた。  そして春休みの前日、夕方、私を呼ぶ太い声に応えて窓を開けると、憔悴した孝仁が窓の棧に頭をもたせかけていた。 「りん、俺、春休み中、引きこもる」 「は?なんでよ」 「『悪いけど若干ウザい』って」  孝仁は言葉足らずだったが、私はすぐ察することができた。  若干、ウザい。  この一年、彼女を想ってきた孝仁の気持ちが、『若干ウザい』って。  話しかけるのに、どれだけ考えたか。映画や初詣に誘うのに、どれほど呼吸が苦しかったか。  来年度はクラスが別れてしまうかもしれないから、孝仁は勇気を出して告白したんだろう。それを・・・・。断るにしたってもう少し言い方があるじゃないか。 「いいよ。春休み中、引きこもりなよ。時々甘いものでも差し入れするよ」 「うーん、サンキュー。なんにも言わなくても、りんは理解してくれるからいいよな。この近い距離に感謝だ」  孝仁のひと言に、涙が溢れた。 「バーカ、俺の失恋でりんが泣くなよ」  違うよ。孝仁の代わりに泣いてるんじゃない。私自身の数えきれないほどの失恋に泣いてるんだよ。近い距離のせいで恋愛対象外にされた私の気持ちの行き場がないんだよ。  そんなことは知らない孝仁は力なく笑った。  春休みのあいだ、本当に孝仁は引きこもった。  ある日の午後、私はチョコチップ入りのホットケーキを孝仁の部屋に持っていった。 「孝仁、差し入れだよ。開けて?」  私が声をかければ開けてくれる。そんな自信があった。 「孝仁?」 「そこ、置いといて」  ドアは開かなかった。 「わかった。あとで食べて」  私は震える声を必死に抑えるように、明るく言った。 「りん、俺さ、いつか誰かを好きになったり、できるのかな・・・・」  ドアの向こうから、孝仁の言葉がかろうじて聞き取れた。  いつか、誰かを。  私ではない、誰かを。 「できるよ、大丈夫。あんた、まだ十七なんだから」  ウザい、なんて言わない、心の優しい、かわいい女子と、今度は両想いになれる。 「私が絶対応援するし」 「そうだな。そういう約束だったもんな。そのときは頼りにする」  ドアの向こうで孝仁は無理矢理明るく応えた。  私は自分の家に戻り、フライパンを洗いながら、なかなか涙が止まらなかった。  私の予想通り、孝仁の口から『かすみさん』というワードが出るようになったのは、再婚の挨拶から二ヶ月後くらいからだった。 「ごはんのとき、隣に座ってるんだけどさ。かすみさん、睫毛、すげえ長いの。肌なんてゆで卵みたい、つるっつる。人形かってくらい整ってんの」  完全に舞い上がっている。 「わかったから、落ち着いて」  孝仁はかすみさんについて感動したことを、私に報告するようになった。  先日は指が華奢で美しいって話だった。 「でさ、笑い方が上品なんだよな」  孝仁を観察していて話を聞いていなかったら、かすみさんの顔の話から笑い方の話に変わっていた。  孝仁、かすみさんを好きになっていることに、気づいていない。イキイキした表情しちゃって。  私は心臓をギュウっと鷲掴みされるように痛かった。うまく声を出せない。だからただただ頷いて、孝仁の話をじっくり聞いているフリを続けた。  数ヶ月後。  孝仁が私を呼ぶことがめっきり減った。  その代わり、窓を開けていると、孝仁の部屋から、かすみさんと孝仁の笑い声が頻繁に聞こえてくるようになった。  ある初夏の日。  気持ちいい風がサーッと窓から入ってきて、開けっぱなしのドアへ抜けた。  私は何気なく、風が入ってきた窓の外に目を向けた。その一瞬だった。向かいの孝仁の部屋のレースのカーテンがフワッと揺れて、部屋の中が見えた。  孝仁とかすみさんが抱きしめ合って、キスをしていた。  私は慌てて身をかがめ、窓から見えない部屋の端に移動した。  壁に寄りかかって床にペタンと座り込み、天井を見上げた。  嗚咽が漏れないように手で口をふさぎ、声を殺して泣いた。涙で天井がぼやけた。  泣きながら高校二年の終わりを思い出した。 『いつか誰かを好きになったり、できるのかな・・・・』  深く傷ついたあのときの孝仁に教えてあげたい。初めて見るようなきれいな女性と両想いになれるよ、と。  恋愛がうまくいく、と評判の神社は、家から四時間もかかる村にあった。  私は朝早く家を出て、電車を二回乗り換え、最寄りの駅から三十分バスに揺られて、その神社にたどり着いた。  閑散、というか、ど田舎、というか、熊が出そう、というか。  あまりにも山奥で、私は怖じ気づいた。コンビニはもちろん、お店も自販機もない。水筒を持ってきて良かった。水分補給が湧水になるところだった。  山の中腹にある小さな神社。セミの大合唱で耳が痛いくらい。  意外に神社は全く寂れていない。掃除が行き届いていて、巫女さんが二人、社務所でお守りを売っていた。  私はまっすぐ目の前の拝殿に向かい、お賽銭をそっと賽銭箱に入れ、手を合わせた。  孝仁が幸せになりますように。かすみさんが優しい人でありますように。そしていつか、私が誰かを好きになれて、その人がすごくかっこよくて、優しくて、価値観も合って、食べ物の好みも合って、自然に孝仁を忘れられますように。  顔を上げて、改めて正面の拝殿を眺める。  頼みすぎだって呆れられてる気がする。でも四時間もかけて来たんだし、奮発して千円もお賽銭箱に入れたし、いいよね。  ふうっとため息をついて、半袖シャツの袖で顔の汗を拭った。  次にお守りを買うために社務所へ向かった。 「こんにちは。お守り、見せてください」 「こんにちは。どうぞ。暑い中、ご苦労様です」  巫女さんの白い着物に赤い袴姿は暑いらしく、後ろで扇風機がまわっていたが、巫女さんの前髪は汗で濡れていた。  お守りは金額ごとに五種類もあり、私は選べず、しばらく考え込んだ。  お守りの袋には『えんむすび』や『恋愛成就』などと刺繍が入っているが、孝仁の恋は既に成就しているみたいだから、これらのお守りは必要ない。  では私は何しにこんな辺鄙なところまで来たのだろう。 「絵馬はいかがですか?」  巫女さんが手の平で端に並べてある木の札を示した。 「絵馬ってお願い事を書いて、奉納するんですよね?そしたら神様が見てくれる・・・・」 「そうですね」 「必ず叶えばいいのに」 「・・・・そう、ですね」  巫女さんは苦笑した。 「じゃあ絵馬をください」  私は絵馬を一枚買い、巫女さんに教えられたカウンターで、絵馬に願い事を書いた。  書きながら孝仁を好きな自分をここに置いていこう、と思った。  緑の香りでいっぱいの、空気も水も澄んでいるこの神社で、恋愛の神様に浄化してもらえたら、長い長い私の片想いも幸福の極みなんじゃないだろうか。  絵馬を掛けようとして、手が震えた。最近は泣いてばかりだ。  孝仁を好きな気持ちをここに置いていく、と決めたのに、いざとなると決心が鈍る。  私は最初で最後の一度だけ、と決めて、溢れる気持ちを声に出した。どこへ向かって言っていいのかわからず、目の前の森林に向かって叫んだ。 「ホントはずっと好きだった!気づけ、バーカ!」  周りのセミが一斉にミミ、ミ・・・・と鳴くのをやめた。  私は涙を拭くと、小走りで山を降りた。  孝仁にお守りは必要ない。孝仁は幸せになるから。  昼間一人でやってきた若い女性、切なそうだったな。  この神社を訪れる人は、たいてい叶わない恋を引きずっている。ここで巫女の仕事をして五年、幸せなカップルはまず来ない。  幸せになってほしいのに。  私は絵馬の奉納場所に足を運んだ。昼間の彼女に絵馬を薦めたこともあって、気になった。  あら、名前も住所も書いてない。  神様、このお願いを叶える人を探すの、大変かしらね。 『私から、ずっと好きだったあなたへ、最後の応援  あなたは好きな人と幸せになれる!神様に頼んでおいたよ』  
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