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「失礼します。店長に食器をしまうようにと……」
優姫が奥の厨房に入ると、そこには既に優姫と同期のアルバイトの男の子がおり、その日にはもう使う見込みのない食器類を洗っているところだった。
「浅川くん、その食器しまっちゃうね」
「おお、月ヶ瀬か。悪い、助かる」
見ると、浅川というらしい同期の彼の隣には放っておくには邪魔な量の食器が洗って置いてあった。その中の、はじめに目についた手前の列の一番上の物から取ってしまっていく。水の流れる音と、皿同士がこすれるカン、という子気味いい音、それからたまに聞こえる水けを払うピッという鋭い音以外、そこにはないはずだった。
「なあ、月ヶ瀬」
浅川がそう切り出すまでは。
「どうしたの?」
「いや、その……夏休みの終わりのあの客の対応、大変だったなってふと思い出してさ。ほら、あれだよ、店長まで呼び出して二時間くらい怒鳴り散らしていったクレーマー。ここ、割とそういう客は少ないはずなんだけどな」
世間話でもするみたいな口ぶりで、浅川は過去の問題を起こした客の話を持ち出した。
あの客。怒鳴り散らしたクレーマー。夏の終わり。
「…………あれ?そんな人いたっけ」
「おい、お前マジか。あれを覚えてないって……俺なんか今でも鮮明に思い出せるぞ」
しかし、優姫の記憶にはそのようなクレーマーはいなかった。誰かほかの従業員の話ならともかく、浅川の口ぶりからするにどうやら優姫自身の対応らしいが、どうも思い出せない。
それはきっと、そのクレーマーを対応したらしい日が、夏の終わりだったことが関係しているのだろう、と優姫は深く考えずに仕事を続けた。
――八時半。あと三十分もすれば閉店も近づき、客足は遠のき始めるだろう。
「いらっしゃいませ」
今日は、あと何回その言葉を言うだろうか。
※※※※※
お疲れさまでした、と店を後に、冷えが強くなり始めた十二月の夜を歩く。まだ出したばかりのコートの首元を引っ張り、いつか誰かにもらった翠のマフラーをくいっ、と上げる。はあっ、と息を吹きかける手元は、冷気に刺されてじんじんと痛むようだった。
「…………そっか、もうこんな季節か」
カフェからの帰り道、ふと回りを見ると赤や黄色、色とりどりの光が壁や木々を包み、街路を華々しく飾っているのに気が付く。夜に咲けとばかりにイルミネーションが鮮やかだ。道案内の看板まで、どこか浮かれたような光に照らされている。
「…………響」
ポケットの中で、きゅ、と手を握る。そうしていると、肩も強張ってシルエットが小さくなる。
闇に紛れる、イルミネーションに照らされた影が頼りない。
可愛い制服と、暖かい空気、それから甘い香りにくるまれたカフェの中ならうまく振舞えて、うまく歩けたのに――。
そう遅くもないこの時間にすれ違うどんな人よりも、優姫の足取りはゆっくり、ゆっくりと地面を繰る。一つ一つ、確かめるように歩いているのに、優姫はまるで、雑踏から取り残されたみたいだった。
まるで、周りの世界から取り残されたみたいに、儚げだった。
「…………また、明日」
気の抜けた音とともに外気を遮断し、余計なくらいに温めた車内に多くの人間を閉じ込めて、電車が走り始める。小さなリュックを前に抱え、うつむきがちに、口の中でつぶやいた。
揺られるけれど、伸ばせば届くけれど、つり革には掴まらずに。
また、明日。
クリスマスの日はもっと近くへ、やってくる。
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