-3 地獄の家

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◇◇◇  喜友名晋司の絵を初めて見た時の衝撃。それは忘れられないものだった。  近くの美術館でやってた展覧会。空いた時間にぷらりと入ったのは本当に偶然だった。絵を見るのは昔から好きだった。好きな画家はたくさんいたけど、それまで心を奪われる画家というのは特にいなかったし、その感覚はよくわからなかった。  その絵は最初、他の絵に紛れていた。  ふと、チラリと視界に入ったオレンジ色に違和感を覚えた。見上げると、そこに1枚の油絵があった。繊細とも荒々しいとも言えない中途半端な筆致、構図も色調もさほど新規性があるように思えない。なのに、そのオレンジに目を引かれる。  絵具が盛り上がって陰影を形作っている。厚く重ね塗りをしている。でもこれほど盛り上がっているなら、もともとの塗られた色はわからない。何か気になって絵の具の層の起こりを眺めていると、ふいにその層のすき間から不思議な匂いのする風のようなものが吹いたのを感じた。  なんだろう? これ。  絵の具の層のすき間に沿って目を動かしていると、その風はどんどん強くなって俺に絡みついてくる。何か、例えば掃除機にでも優しく吸われるように絵に誘われる。こっちへおいでと手をひかれる。こんな気持ちは初めてだ。  これが魅入られるということなのかな、と困惑しながら思ってその絵の全体を眺めたその瞬間、視界の全てを奪われた。もう、絵しか見えなくなった。   鮮烈なオレンジ、滲み出る藍、そして明滅する赤。  絵を中心にパタパタパタとパネルが反転するように世界が塗り替えられてゆく。その色は侵食するように脳髄に刻みこまれ、そこを起点に染み込む色に脳が、魂が、俺の全てが奪われ、囚われ、抜け出せなくなった。  何か、俺が俺でなくなる感覚。生まれ変わるっていうのはこういう感覚なんだろうか。この、全てをこの絵の色に支配されるような鮮烈な感覚。  絵のタイトルは『落日の悲歌(らくじつのひか)』。  作者は喜友名晋司。  日が沈み、世界が全ての終わりに悲しみ叫んでいる。  その日、俺の魂は深いオレンジ色の中に沈んだ。
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