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1834年。
バラクシア連邦内、東方国ペラセロトツカ。
奴隷からの解放を求めたラグラス人種、所謂“奴隷人種”の反逆に端を発する“浄化戦争”。
長年の民族差別と共に続いてきた奴隷制度の存続を巡る、東方国と中央国の大規模な衝突。
それは皮肉にも、奴隷制度による労働力で工業を発展させていた中央国、レガリスの勝利へと傾きつつあった。
6年間に渡り続いた浄化戦争もいよいよ終戦の日が近付き、このまま敗北すれば奴隷からの解放を夢見たラグラス人は、再び奴隷として扱われる日々を過ごす事となる。
都市連邦バラクシアの首都とも呼ばれる中央国、レガリスに敗北、及び無条件降伏などしようものならペラセロトツカ及びラグラス人種の今後が、どれだけ暗い物になるかは言うまでも無い。
そして、ラグラス人の義勇兵及びペラセロトツカ軍、俗に“奴隷解放軍”と呼ばれる陣営を無条件降伏に追い込む、最期の戦局。
それが、このネロフスカヤ礼拝堂の殲滅であった。
ネロフスカヤ礼拝堂、内部。
風通しが悪く、埃っぽい空気の中に、血と臓物の匂いがむせ返りそうな程に充満している。
靴底が床に張り付いては、剥がれる音がした。
塗料を踏んだ様な赤黒い足跡が、歩く男の後ろへ尾の様に伸びている。
礼拝堂の外から聞こえてくる激しい戦火の音とは対照的に、礼拝堂内の足音は一人だけだった。
上等な剥製の様に活気の無い眼をした男が、礼拝堂の中をただ一人歩いている。
右手に握り締めたサーベルには、刀身の色が分からない程の血糊が染み付いていた。
対となる左手には、民兵の物と思われる槍が握られていた。右手のサーベルと同じく、二度と落ちないのではないかと思う程の血糊が塗りたくられている。
男の着込んでいる軍服にしても、袖口に裾にブーツ、加えて胸元まで赤黒く染まっていた。
石突きでも無い槍の穂先が地面で削れ、小さいながらも耳障りな音を立てる。
周りには褐色銀髪のラグラス人達、所謂“亜人”や“奴隷人種”と呼ばれている人々が、血溜まりを広げつつ折り重なる様にして事切れていた。
黒髪や頬に張り付いた返り血を拭う素振りもなく、男は脱け殻の様に歩いていく。
男の名前は、デイヴィッド・ブロウズ。
肌は白く、褐色銀髪のラグラス人とは似ても似つかない風貌をしている。バラクシア全土でキセリア人と呼ばれている、所謂“正当人種”だった。
礼拝堂の外から、戦火の音が聞こえてくる。怒号の様な声も、悲鳴の様な声も。
この礼拝堂を守る為に、全てを掛けて戦っている義勇兵やペラセロトツカの兵士だろう。
だが、礼拝堂の“守りたかった人々”は誰一人として息をしていない。
礼拝堂内で唯一音を立てているこの男が、全て“殲滅”してしまったのだから。
赤黒い足跡が掠れてきた辺りで、不意に男が立ち止まる。
数多の骸を踏み越える様にして礼拝堂の中心まで来た男は、左手に持っていた槍を握り直し、高所の窓に向かって高く投擲した。
硝子と木材が砕け、耳障りな音を立てながら床に散らばる。
当然ながら破片は転がっている遺体にも降りかかったが、男は気にも留めなかった。
男が腰の後ろから小型のディロジウム銃砲、俗に言う拳銃を取り出す。
緑がかった青色の揮発燃料、ディロジウムが充填された金属薬包を静かに装填した男は、先程砕いた窓に狙いを定めて、引き金を引いた。
如何にも銃砲らしい、乾いた銃声と共に緑色の煙弾が窓を突き抜けていく。
礼拝堂の内部から信号弾が昇るのを確認した帝国軍から、大歓声が上がる。
それに対比する様に、奴隷解放軍の兵士達の表情が絶望に染まる。
自分達が死に物狂いで守っていた物が、粉々に打ち砕かれたのを悟ったからだ。
生気を失い、武器を取り落とす兵士達をレガリス軍の兵、通称“帝国軍”の兵士が直ぐ様突き刺し、切り捨てる。
降伏する気力すら失っている者も居たが、帝国軍の兵士はそれを意気揚々と踏み潰していった。
この戦果が決め手となり、数日後に東方国ペラセロトツカは中央国レガリスに対し、完全降伏を宣言する事となる。
礼拝堂内部、遠くから聞こえる歓声を聞きながら、男がディロジウム銃砲を床に放り投げる。
どのみち変形して張り付いた金属薬包を排出するには、それなりの手間と力が必要になる。もう、次弾は必要無かった。
礼拝堂の木屑と煤を被った椅子に座り、男が砕けた窓から空を眺める。
その眼には、何一つ希望と呼べる物は映っていなかった。
彼の名は、デイヴィッド・ブロウズ。
中央国レガリスの帝国軍、隠密部隊に所属する、“浄化戦争の英雄”と呼ばれている男の名だ。
この戦争で打ち立てた功績により生涯、栄光と黄金が約束された男の名であり、数ヶ月後に全てを失う男の名でもある。
そして数年後、自国のレガリスのみならず、バラクシア全土を震撼させる男の名前でもあった。
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