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ハインズがその時計塔の清掃員に選ばれた時、ハインズはまだ母親のお腹の中だった。
この街に生まれる子供は、何処で何歳までを過ごし、何の役職になって、誰と結婚するかまで生まれる前に決められる。
ハインズが母親のお腹にいると分かった日、ハインズは大人になったら時計塔の清掃員になるのだと決められた。ハインズの父親にあたる人物もまた時計塔の清掃員をやっており、そのままそれがハインズの役職になったのだ。
だからハインズにとって時計塔はその頃住んでいた家の次に馴染みのある安心できる場所だった。
ハインズは大人になったら自分がこの時計塔で暮らすようになるのだと信じて疑わなかったし、それに誇りすら感じていた。だって、その街で時計塔は何よりも大きな建物で、何よりも目立つ街のシンボルだったからだ。いつかあの場所が自分の住処になるのだということが、小さい頃のハインズにとっての自慢だった。
ハインズが彼女と初めて会った時から、彼女は数日おきに時計塔へ訪れるようになった。
ハインズは彼女の名前も、普段何しているのかも知らない。知ろうとも思わなかった。
彼女がやってくる頻度にも話題にも規則性はなかったが、彼女はいつも日がもう暮れる頃に猫のように気紛れにふらりとやってきては、時計塔の最上階に初めて会った時と同じ様にペンキをまき散らした。そうしてハインズが何も言えないでいる内から、その些か乱暴な行為とは何の関係もない世間話を取り留めもなくハインズに話すと、時計塔が一日の最後の鐘を鳴らす頃に帰っていくのだった。
「ねえ、ハインズは朝ごはんに何を食べるのが一番いいと思う?」
その日も、彼女が話題に選んだのは実にありふれた素朴な問いだった。
好みを問う質問ではなくて、正解を求める質問。彼女の問いはありふれていたがそれはいつも彼女が言いたいことを言う為のもので、彼女の中には明確な答えが存在しているもののようだった。
ハインズは彼女の零したペンキの汚れをモップで拭いながら少しの間正解を考えて、結局「パンと牛乳」という何処かの刑事の張り込みのような答えを答えた。
それはこの街では何もしなくとも街の皆に配られる食べ物で、恐らくこの街の最も多くの人が主食としているメニューだった。外に貰いに行けば他の食材も手に入るはずだったが、ハインズはそうして食材を貰いに行ったことがなかった。
ハインズが半ば予想していた通り、彼女は「そんなのダメよ」と言ってその場で仁王立ちすると、胸を張って堂々と言ってのけた。
「朝ごはんにパンを食べるというのはまあいいわ。でもそのままなんて論外よ。朝にパンを食べるなら、ベーコンと目玉焼きを乗せてほんの少し胡椒をかけて食べるの。目玉焼きは焼き過ぎてもいけないし、焼かな過ぎてもだめだわ。噛んだときにキミがとろけて流れない程度には半生じゃなくちゃ」
それは随分と我が儘で要求の多い朝ごはんだと思った。そういうことを彼女はまるで最初から決められていることだとでもいうように言うものだから、ハインズには彼女の言葉がいつも絶対的に正しいもののように聞こえた。
だからハインズが「そう」といつものように相槌を打つと、彼女もいつものように満足げに頷く。
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