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その日、彼女は泥だらけの姿で時計塔にやってきた。
彼女の着る上等なコートは水たまりで転んだかのように汚れ、同じ様に汚れて切れた唇の端からは血が滲んでいた。彼女の綺麗な金髪はほつれており、所々に赤い染みが滲んでいる。
それは何処かで転んだようにも見えたし、誰かに殴られたようにも見えたし、また別のもののようにも見えた。そして彼女は、いつもの黒いペンキの入ったバケツを何処にも持っていなかった。
ハインズは言葉を失った。そしてハインズが言葉を取り戻す前に、彼女はいつも通り世間話のような口調で話し出した。
「この間、隣の隣の真正面の床屋さんの玄関に巣を作っていた鳥の子供が巣立ったの。でもこんな寒空に放り出されて、何だか小鳥は可哀そうだと思わない? だって、ついこないだまで元気に親を求めて鳴いていたのに。
ねえ、ハインズ、あの小鳥は自由だと思う?」
ハインズは久しぶりに彼女の言っていることがさっぱり分からなかった。
彼女は小鳥の話をしているのに、ハインズは初めて彼女と会った時のことを思い出していた。そうしてから暫くして、ハインズは初めて彼女の質問が彼女の答えを問うものではなくて、ハインズの答えを問うものだったことに気が付いた。
ハインズが何も言えないでいるのを見て取ると、彼女はやっぱりまた自分から話し出した。
「私はね、自由だと思うの。あの小鳥が例えば来年、同じ所に巣を作って、自分の子供にご飯をあげて、巣立たせたとしても。例えば、もっと大きな動物に捕まって食われたとしても。それがその生物としての生き方だと誰かに決められていたとしてもよ」
「それが……」
口の中が何故だか酷く乾いていて、ハインズはそんな一言しか言葉に出来なかった。
その段になって初めて、ハインズはこんな時期に巣立ちをする鳥はいるのだろうかということに思い至る。
「──それが自由なの」
彼女の言葉は相変わらず全てを決めきってしまえるような力強いものだった。
そうして彼女は少し微笑むと、もう日が短くなって暗くなった空を眺めながら白い息を吐いてハインズに問う。
「巣から巣立った鳥はこの街から出て、何処に行けばいいと思う?」
ハインズは少し考えて、何かは言わないといけないと思ってぼんやりと「……海、とか」と応えた。
「そうね、それもいいわ。広い海を越えて、新しい場所に行くのでしょうね」
そうしたら、と彼女は夢物語を語り始めた。
次第にハインズも応じて、その日は二人で暫く見たこともない海の向こうの話をした。それは心の躍る楽しい話で、でもやっぱり夢物語だった。
辺りが完全に暗くなり、時計塔が一日で最後の鐘を街中に響かせる。最後までハインズは、彼女にどうして泥だらけなのかも、その傷はどうしたのかとも聞けなかった。
いつも通り帰り支度を始める彼女の手に黒いペンキを入れる空のバケツが握られていていないことに、ハインズは何となくこれを逃せばもう彼女はここには来ないのじゃないか、と思った。言いたいことは、沢山あるような気がした。そのどれもが言葉にならなくて、代わりにハインズの口から出たのは全く別のことだった。
「……まだ、時計は嫌い?」
彼女は最後に振り返って、フッと微笑む。
「もう嫌いじゃないわ。だって、一分を六十秒だと選んだのは私だもの」
彼女の考えていることは相変わらず分からなかった。
それだというのにハインズがその言葉に焦燥感を抱いたのに対して、彼女は何処か清々しい顔をしていた。ハインズはそこでようやく彼女の指輪がハマっている指が、左手の薬指になっていることに気が付く。
時計塔から去っていく彼女を呼び止めるにも名前を知らないことに気が付いて、ハインズはその時初めて彼女の名前が知りたいと思った。
そしてその日以来、彼女は二度と時計塔にはやって来なかった。
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