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彼女がやって来なくなっても、ハインズの生活は変わらなかった。むしろ、元に戻ったと言ってもいい。
相変わらずハインズの朝ご飯はパンと牛乳だったし、相変わらず一分は六十秒だった。
一つだけ変わったことがあるとすれば、それは時計塔の隅に出来ている黒いペンキのシミが更新されなくなったことで、少しずつそこが元の色を取り戻していることぐらいだった。
彼女が来なくなってから、彼女と過ごした日々と同じだけの時が過ぎた頃、ハインズはようやく彼女の残していったペンキの痕を綺麗に拭い去ることが出来た。
そしてハインズはそこにペンキの痕とは違う古い傷跡が残されていることに気が付いた。
それは石で削ったようで歪に、しかしはっきりと残った子供の落書きのようだった。
落書きは三角の真ん中に一本線を描いた傘のような模様の上にハートの形が描かれた、いわゆる相合い傘が描かれていた。
その下に書かれた名前は驚くべきことに片方はハインズの名前で、もう一つは知らない名前だった。ハインズはその名前が、今一番ハインズが知りたがっている人物の名前なのだと思った。
ハインズがそれを見て思い出したのは、遠い遠い、ハインズがまだ時計塔の清掃員になる前の記憶だった。
幼かったハインズは将来自分の職場になる時計塔に、良く友達を呼んではそこで遊んでいたのだ。滅多に人の来ない時計塔の最上階は、ハインズ達にとって一番の遊び場だった。
幼い頃、ハインズには多くの友達がいて、毎日のようにその友達たちと遊んでいた。その中にハインズはひときわ仲のいい女の子がいて、ハインズはその女の子と将来の夢物語を語りながら、確かこの相合い傘を描いたのだった。
今更そんなことを思い出してもどうしようもなかった。ハインズはそれを思い出したところで、変わらず時計塔の清掃員だった。
掃除を終えた頃、外の景色はもうすぐ夜を迎えようとしていた。
一日の最後の鐘が鳴る前に、ハインズは時計塔の階段を駆け下りた。
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