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アネモイ
「役立たずには、役立たずをやろう」
酒宴の席。
そう嘲笑ったのは、この国の王であり、己の主だ。男の一族は騎士として、この国を治める王に、ずっと仕えてきた。その忠誠は、これからもずっと――続く、はずだった。
ほら、と王は物を投げ捨てるように、一人の青年を男に寄越した。両の足に枷をつけられているためにほとんど歩くこともできず、無様に床に横たわった青年の背には、大きな双翼が備わっている。飛んで逃げることができないように、大きな翼の風切り羽もざっくりと切られているのが哀れだった。
この青年を王が手に入れたのは、お気に入りたちを引き連れて南方のとある地域を襲った時だという。たった半年前のことで、男たちが自領の手入れのために王の傍から離れていた時のことだ。若い頃から少しずつ暴力的で残虐なところを見せていた王が、はっきりとその性格を露わにした事件でもあった。
この国のある大陸には小国がいくつもあり、それぞれ得意なものを交易してのんびりと栄えていた。中には遊牧の民や、森や湖を基点として国を持たない異種族すらいる。そんな具合だから、遠くの大国もわざわざこんな田舎まで手をのばしてくることもなく。王は、大国に並びたいと、とある宴で嘯いたことがあった――そのために、近郊の国への侵略が必要だとも。
この国にはめずらしい有翼の民を制圧したことを、王は最初喜んだ。その喜びは、鷹狩りで満足のいく獲物を得られた時と同じだったのかもしれない。その中でも一際美しいこの青年を、王は気に入ったのだという。男たちが知れば、反対してくるのを知っていたからか、自分が飽きるまでずっと地下牢に隠し続けていた。青年が自我を失うまでの長い間、薬やら身分の分からない者やらを使っていたぶり続け――気高い様子だった青年の目は虚ろになり、ついには何も話さなくなったのだと、衛士たちから男は聞かされた。
男は自身も騎士として、この地と、神との契約で治めることになったという王族とを守ることが、騎士としての誇りだった。国を持たない民を襲ったり豊かな地を強奪することは、決して彼の仕事ではない。
ある日、王は男が率いる騎士団に北の小国を取ってこい、と命じた。他にも幾つかの騎士団が王の命で北へと向かったけれど、どの騎士たちも男と考えていることは一緒だった。戦もままならなくなる冬まで伸ばしに伸ばし、冬が来たことを理由にあっさりと侵略を諦めて騎士たちは自国へと帰還した。大事な秋の季節を戦のせいで無駄にしてしまったので、戦で得られるものがなければ、来年の自領が貧しくなることも分かってはいたけれど。
王は側仕えたちに諫められたものの憤怒し、王の政治に助言していた者を数人粛清した後で『役立たずな』騎士たちの帰還を許した。そうして催された今日の酒宴で、騎士たちを大いに詰ってきたのだ。
「その薬でも飲ませて楽しめば良い。まあ、とっくに壊れてはいるが、もう少しは動くだろう」
立ち上がった王はそう言って、有翼の青年の髪を掴もうとした。男がそれとなく青年の前で膝をつくと、苛立ち紛れに葡萄酒を顔にかけられる。周囲はシンと静まり返り、王は「白けた」と言って寝所に戻っていってしまった。
「……さて、困ったな」
王にやると言われて、受け取らないわけにもいかない。かくして男は有翼の青年を引き取ることにした。男には妻もいないし、見習いとして預かっていた少年たちも、王の残虐さを心配して親元に帰してした。年老いた使用人と、料理人と。王が課す税の徴収は年々厳しくなっているから、自分の屋敷にはそれほど金をかけていない。他の部屋を空けるのも面倒で、青年を自分と同じ部屋に住まわせることにした。書斎もあるので、青年が嫌がるそぶりを見せたら自分は書斎に引っ込めばいいと思ったのだ。どちらにしろ、日中は訓練や自領の見回りやらで屋敷にもいないが。
青年は、おとなしいどころか何も話さなかった。目は虚ろで、目を開けたまま夢を見ているのかと思ってしまう。顔立ちは、少年ぽさは残るものの美しく整っていて、だからこそ哀れにも思った。
自分と同じ寝台に寝かせようとすると、日中はぼうっとしていたままだった青年が寝間着を脱いですり寄ってきたので、男は驚いた。そうして、ことの次第を見ていたという衛士が、男に訴えたかったことの意味が、ようやく分かった。青年はずっと、王の慰み者になっていたのだ。男でありながら無理やり身体を開かれた挙句、薬と快楽で――自我を奪われたのだとしたら。
うすうす気づいてはいたけれど、王に渡された薬の正体を確信した。その薬を屑籠に力いっぱい投げ入れてから、男は頭を抱えた。そんな己を、大きな翼をきっちりと折りたたみながら、青年はきょとんとした顔で見ている。
「もう、そんなことをしなくて良いんだ。俺は、王とは違う」
顔立ちの美しい青年の無防備な姿に、劣情を抱かないわけではないけれど。気高い様子だったという青年の魂をこれ以上穢すことはしたくなくて、男は苦笑いすると青年の寝間着をまた手ずから着せてやった。
朝起きると、青年はまたぼうっとした様子で、でも窓辺に置いた椅子に腰かけていた。
「おはよう。早起きだな」
男が声をかけても、青年は虚ろな眼差しを動かすことはなかった。
似た夜を繰り返し、また朝が来て――それを何度も何度も繰り返したとある朝。男がいつもと同じく声をかけると、青年が眠そうな目を瞬かせてから、少しして笑いかけてきた。それはあどけなさの残るもので――だが、ようやく虚ろ以外の表情を見ることができて。無性に、男は嬉しくなった。青年はやはり話すことはなかったが、立ち上がって窓辺へと近づいていく。ぺた、と窓に手をつけた青年の姿越しに窓を見ると、男の領地一面に雪が積もっているのが見えた。
「ああ、今年は遅いと思っていたが……もしかして、雪がめずらしいのか」
青年がいたという南方の地方は冬でも暖かいという。「外に出てみるか?」と誘ったが、青年は小首を傾げるだけだった。その頃から、青年が男に裸ですり寄ってくることもなくなった。窓辺の椅子は心地が良いらしく、見回りから帰ってくると椅子にもたれたまま器用に翼を広げて寝ていたりする。男が「ただいま」と声をかけると、ぱちくりと目を開いて、はにかみながら笑い返してくるようになった。
そんな青年の様子を、男は愛しいと感じるようになっていた。
「……もっと、着せた方が良いだろうか」
「ご主人さま、これじゃあアネモイが潰れちまいますよ」
屋敷の中を青年が散歩するようになり、使用人と話し合って外に連れ出してみることにした。『アネモイ』、というのは男が必死に考えてつけた名前だ。青年は言葉を発さないので、本当の名前も分からない。王は、青年に名前を与えることなどしなかった。翼を持つ、風の神――そんな異国の神話を、とっくに亡くなった母から聞かされたことがあって、そこから名をもらうことにした。
使用人の意見もそこそこに、男は青年――アネモイに、自分が持つ物の中でも一番上等な、獣の皮で作られた外套を着せて外へと連れ出した。両親から受け継いだ屋敷の中庭は、あまり手入れする余裕もなく、草木が伸び放題なので見栄えは良くない。しかし、少しでもアネモイの気分が晴れたらいいと思った。おとなしく付いてきたアネモイだったが、中庭で男が手を離すと、何度か男を振り返ってから、よたよたと歩いて近くにある木を見上げた。今朝も雪が積もったので、アネモイが歩くと足跡がつく。人が近づけば逃げていくはずの野鳥たちも、有翼の青年のことは恐ろしくないらしい。むしろ集まって賑やかに囀り始める。
青年も楽しげにしているのを、男は少し離れた場所で腰かけて見ていたが、またアネモイがこちらを振り返ってきた。
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