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整いゆく翼
「……飛べるのなら、飛んでもいいぞ」
それは、いつかは言わなくてはいけない言葉だった。青年が持つ双翼は立派で、青年が飛ぼうと思えば、今すぐにでも飛べるのではないかと思えた。
(それなのに、厚着をさせて飛びにくくさせているとは……)
矛盾している。そんな己に苦笑しているうちに、いつの間にか青年は男のすぐ前まで来ていた。男と視線が合うと、ゆっくりと首を左右に振り、せっせと男の膝の上に乗ってくる。騎士の中でも体格がいい男に対して青年は小柄であったし、空を飛べる種族だけあって身体もとても軽くて――温かい。男が青年の柔らかな黒髪を撫でても、青年はただ不思議そうな顔をしながら、ただされるがまなになっていた。
春の種まきの季節を迎えて、何とか冬を越えることができた。
男の小さな領地の民たちは勤勉な者が多く、日頃から蓄えもしていたので飢えることなく凌ぐことができた。自領を見て回るのに、アネモイも連れていくことにしたのだが、この国ではとてもめずらしい有翼の青年を、領地の子どもたちだけでなく、大人たちも歓迎する。男の母と同様に異国から来た者もいるから、翼を持つ青年が神々しく見えるからかもしれないと、男は推測したりもした。
春が来て、青年の翼も多少は生え変わり前よりも状態は良くなったが、やはり言葉を話すことはなかった。じっと男の話を聞いたり、時折笑ったりすることは増えて、使用人の手伝いをしながら青年は男の屋敷で過ごす日々が続いた。最初の頃見せていた子どもみたいな仕草も、少しずつなくなってきている。この屋敷に来た頃と同じように、男が服を着せてやろうとしたら、顔を真っ赤にしたアネモイに部屋を追い出されてしまった。
(もしかしたら――)
羽の状態が良くなっていくのと時を同じくして、王に与えられた毒が、抜けようとしているのだろうか。冬の間に男が字を教えたら、アネモイは本を読むようになった。それから植物や鳥、動物の生態が載った図鑑を片手に、中庭に出かけることも増えた。男の一族は騎士として生きてきたが、代々探求好きでもある。この手の本なら、屋敷にいくらでもあった。青年の腕は王に痛めつけられたせいで、字を書くには力があまり入らないのが辛いところだが、青年が本来持つ賢さに男は目を細めた。
それから、時々思う。
この地は、本来青年がいるべき場所ではない。青年は自分が生きていた場所から無理やり引き離されて、この地に放り込まれてしまったのだ。アネモイを連れてそれ程広くない領地を見回り終えた頃、北の地へと帰っていく渡り鳥たちの最後の群れを、青年と共に見送った。
***
「王の気は、確かなのか?!」
「ユーロス。王に聞かれたらまずい」
男の名を呼んだのは、別の騎士団をまとめている一人だ。領地も隣り合い、年の頃も近いということもあって良い相談相手としてお互い王に仕えてきた。その友人からもたらされたのは、王が今度は自ら北の国に赴くという話しだった。
「北の国の王が、まだ年若く美しい少年だと聞いて……王の悪い病気が出たらしい」
「……悪い病気などと。そんな言葉では済まされないだろう!」
俺だとて許しがたい、と友人が苦々しい思いを吐露してきた。
「ユーロスによこしたあの有翼の青年のことも、また惜しくなってきたらしい。北の国の王を捕らえたら、有翼の青年と並べて愛でたいとか言い始めたぞ」
それが、王の所業か。思わず声にしてそう吐き捨てた男――ユーロスの肩に、友人が手を置く。
「友よ。俺は王を諫めて来ようと思うが、諫める者に対して、王はますます容赦なくなっている」
「……諫めるだけ無駄だろう――我が友よ」
鋭い友人の眼差し。あえて男が大事にしている有翼の青年のことを持ち出したことといい、友人が何を考えているのか、男には良く分かった――それは、男も考えていたことだったからだ。
間もなくして、友人が言っていたとおり、王は自分のお気に入りの騎士団だけを引き連れて北へと赴いていった。今回は自ら指揮を取ると豪語し、王が意気揚々と出立するのを、残された者たちは諦念の表情で見送った。
それからの行動は、迅速だった。周囲にいる騎士たちにもほとんど知らされてこなかった、王の『宝もの』を暴くために奔走したのだ。かつてのアネモイ同様に、お気に入りとして囚われていた者たちを次々と解放していく。王と共になって彼らを弄んでいた者たちは捕縛し、牢へと押しやる。解放された者たちには数人ずつ護衛をつけて、彼らの故郷へと帰した。人質でもあった彼らが帰れば、一気にこの国は攻め入られるかもしれない。時間はなかった。
己の部下たちには自分がやろうとすることを説明したが、一人二人、農民に戻りたいと申し出ただけで、後は最後まで男と戦うと言ってくれたのは心強かった。城内をくまなく探し、捕らえた兵たちから情報を聞き出してすべての仕事をやり終えると、男は一緒に連れてきていたアネモイを呼び寄せた。
再び自由を取り戻した翼で、塔の上や、鍵がなければ本来は入れない後宮の庭にいたるまで王の『宝もの』探しにアネモイは大活躍だった。どんどんと故郷へ帰っていく者たちを嬉しそうに見送るアネモイの、深い青色を宿した眼差しを焼き付けるために、男は気づけば何度もアネモイを見ていた。
「アネモイ。お前も、もう自由だ。自分の故郷に早く帰るといい」
男のかけた言葉の意味が、伝わっていないのだろうか。
きょとんとしてこちらを見ているアネモイを見て、なぜか急激に感情がこみ上げそうになった。相変わらず綺麗な面差しをしているが、最初に見かけた時の白痴めいた表情は消え失せ、本来あるべき青年の姿だろう、賢さや明るさが戻ってきていると思える。そんな青年を、これからもずっと傍で見守りたかった。
「俺はこれから、北に向かって王をお止めしようと思う。王の怒りに触れて、俺は領地も地位も――命も失くすかもしれない。本当なら、アネモイの羽が生え変わった時にすぐにでも帰せたはずなのに……今まで引き留めていたのは、俺自身の我儘だった」
はくはくとアネモイの口が動いたが、言葉が出ることはなかった。衛士の話だと、一番最初に連れて来られた時にはまだ、言葉を交わすことができたという。今はアネモイが話したくても、声が出ないらしい。頬を紅潮させたアネモイが、よたよたと更に歩み寄ってきて男の外套を掴んだ。
「アネモイ。お前には、憎い敵国の男だったかもしれないが――俺は」
俺は、愛していた。
帰郷できることを喜んでいるかもしれないアネモイに、自分でも情けないくらい未練たっぷりな言葉を続けることはできない。男が口をつぐむと、アネモイは外套からパッと手を離した。一度だけ男を振り返り、今度こそ高く、男の手では届かない程の速さであっという間に蒼穹へと融けこんで行ってしまった。
(泣いたりは……まさか、しないだろうけれど)
最後に振り返った青年が、泣いていた気がして。自分で決意したことのはずなのに、笑えないほどの喪失感。それをごまかすために、男はずっと動き回り続けた。
***
「アネモイと言ったか。あの、有翼の青年は?」
「故郷へ帰った。よほど帰りたかっただろうに……俺がずっと、引き留めていたんだ」
元気がないぞ、と友人が笑った。このまま領地にこもっても、王を追いかけても、ユーロスたちにはもう生きる場所はない。友人らと共に、死をも覚悟している騎士団を率いて、ユーロスは去年も通った道を急いでいた。
「王だ! 王が、城のことに気づいて取って返してきた!!」
斥候に出していた一人が、顔を青くしながら報告してくる。全員が全員、ユーロスたちに賛同するとは思っていなかったが、予定よりもずっと早く、事態が王に露見したらしい。今となっては、男たちは王にとって反乱者だ。森の近くなので、争ってもこれなら一般の民たちに被害は出ないだろう。領民たちには、自分がいなくなったら自分の思う主に仕えるようにと話してある。まだ、王の傍にも人格者はほんの少人数だが残っている。そのいずれかが、自分の領地を治めてくれれば良いとすら、身勝手にも思っていた。
「さて、どうしようか……友よ」
「……話を聞いてくだされば良いが」
それはきっと叶わぬことだろう、とユーロスは自嘲した。王が剣を持ってこちらに向かって来たら、自分はどうするだろう。そんなことをゆっくりと考えることも許されず、すぐに彼らは王が率いる一団と交戦することになった。王が率いる騎士たちにも、さすがにユーロスたちを見て動揺は広がったが、その中にあって「反逆者だ、殺せ!」と王が居丈高に叫んだ。周囲の騎士たちが自分の命通りに動かないことに焦れた王が、単騎で真っ直ぐにユーロスへと向かってくる。
「ユーロス、剣を!」
友人が、叫ぶ声。
両親からずっと、唯一の王に仕えよと言われて育ってきたユーロスにとって、目の前に迫ってくる王が己を殺そうとしても、自分には殺せないと唐突に結論を出した。
ユーロスの馬が、危険を感じて逃げを打とうとする。その逡巡を切り裂いて、大きな羽ばたきの音――そして強い風が彼らの間を通り過ぎて行った。王の馬がそれに驚き、棒立ちになる。あっけなく馬から振り落とされた王の前に、一人の青年が立ちはだかった。その背には、大きな双翼があった――。
「まさか……アネモイ?」
ユーロスのところからも、青年が震える手で剣を握りしめているのが見えた。飛ぶために己の体重すら軽くしている有翼の民にとって、剣は到底重くて持ちえないはずのものだ。持っているだけでも精一杯なことに、王もすぐに気づいた。
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