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手が勝手に添えられたフォークへ伸びる。
でも、食べていいのかな? たぶんこれはこの人のお昼だったに違いない。
プレートから顔を上げると、彼はとろけるような笑顔で僕を眺めていた。
甘くてむずがゆい感情が胸の中にわき起こる。
「食べちゃっていいんですか? 注文してないからお金払いませんよ?」
すると明るい笑い声が返ってきた。
「もちろん君へのプレゼントだよ」
初対面なのに、なんなのか。彼の笑顔が……まとう空気の全部が、僕好みで困る。
「こんなことしてたらあなた、商売にならないでしょう」
「そうかな?」
「僕は見ての通りの貧乏学生ですから、一度やさしくしたからって、そのあとせっせとこの店にお金落としたりしませんからね」
「大丈夫。そんなこと期待してないよ」
彼は笑いながら言ってから、少し考えるような顔をしてまた口を開いた。
「でも、ちゃんと食べてくれることは期待してる」
「なんで……」
「僕が、食べてるところ見たいから」
ヘンな人だ。顔は微笑んでいるけれど、目は真剣だった。
僕はその視線に押されてフォークをつかむ。
「……いただきます……」
口の中で言って、フォークで切り取った欠片を口に含んだ。
ほんのり甘くてやわらかい。味はなんというか、はっきりしない感じだった。でもずっと口に含んでいたい気がする。
これって美味しいのかな?
今度は大きめに切り取って口に運んだ。
やっぱりこれといって主張のない味だ。言ってしまえば家庭の味。他にガレットの店があったとして、そことの差別化は難しいはずだ。
でも……。
涙がぽろりと皿のふちに落ちる。
僕はきっとこの味が好きだ。
そしてこの人が……。
涙をぬぐい、サーモンとルッコラを卵の黄身にひたして食べた。
薄めの味付けだからか素材の味を強く感じられる。
「あの、お兄さん、好きな人はいますか?」
僕のグラスに水を注ぎ足しに来た彼が、笑って顔を上げた。
「好きな人か、どうかなあ」
その答えはズルい。
「君は?」
「えっ?」
日本語の質問をふたつも投げ返された。
「僕は……、います! つい昨日失恋してしまいましたが、今また好きな人ができました」
お兄さんはぽかんと口を開けて僕を見つめたあと、ぷっと噴き出して笑った。
「ゴメン、笑って。それ聞いて僕も君が好きになったよ」
告白して笑われたのは初めてだ。でもうれしい。
この人の笑顔が好きだ。
付き合ってください、そう言いたいところを思い留まる。
「この店、なんていう名前ですか?」
「『珈琲ガレット調布店』っていうんだけど……」
お兄さんがカウンターの上にあったショップカードを差し出してくる。
「よかったらまた来てね」
僕は黙ってうなずいた。
よかった、大丈夫だ。今日も学校に行けそうだ。
立身出世のために無理して海外留学までして、学校に行かないなんてことはできない。
失恋がなんだ。僕には明るい未来がある。
「ガレット美味しかったです。ごちそうさまでした」
ガレットと同じ色をしたショップカードは、お守り代わりに胸のポケットにしまった。
<了>
この番外編は「ルクイユのおいしいごはんBL」というTwitter企画のために書きました。素敵な作品がたくさん上がっていますので、ハッシュタグ(#ルクイユのおいしいごはんBL )をのぞいてみてください。
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