第1章 祓戸の神

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「ここの神棚に神さまはいないと思います」  店に戻ってきた詩に、ソンミンが真面目な顔をして言った。 「毎日お参りしてこの状況なら、ほかの神さまに鞍替えした方が」 「ミンくんは厳しいねえ」  詩は笑って流す。 「ここはまだ3年目だけど、前の蕎麦屋は江戸時代から続いてて、神棚の神さまとはその時代からのお付き合いなんだ。鞍替えなんて言ったら罰が当たる」  サーバーに残っていたコーヒーをカップに注ぎ、詩はようやくそれに口を付けた。 「ブルマンうまっ!」 「でしょう? 神さま変えて商売繁盛したら毎日飲めますよ」 「いや、普通に毎日飲もうよ。どうせこの1キロは売れ残る」  詩が瓶に詰め替えたブルーマウンテンを指さした。 *  翌日。変わった客が店の敷居をくぐった。  どんなふうに変わっているのか、ひと言で説明するのは難しい。  ただ顔を見た瞬間、(うた)は「あれ?」と思った。  既視感がある。テレビか何かで1、2度見ただけの人が、目の前に現れたらこういう感じなのかもしれない。  それから髪型と服装に目が行って、ああ、と思った。  世間で言うところの和装男子なのだが、今の時代に和装をしている男子というのはものすごくおしゃれだ。髪の先からつま先まで気をつかっている。  けれども目の前の人はそうではなくて、江戸時代の浪人を思わせるざっくばらんな様相だった。すり切れた着物はしわくちゃ。髪も爪も汚い。  店に入れて大丈夫なのかどうか、一瞬迷うくらいの格好だった。  ここはドレスコードのあるような店ではないけれど。 「いらっしゃいませ」  店頭に立っていた詩が戸惑いを含んだ声で言うと、男は何も言わずに詩を見つめた。 「あの、お好きな席にどうぞ?」 「昨日のあれが飲みたい」 「昨日の、あれ?」  男の言葉を繰り返し、詩は首を傾げる。  初めて見た顔だが、昨日も来た客なんだろうか。だとしたらバイトのソンミンに店番を任せていた間のことなんだろう。だがソンミンは何も言っていなかった。  よって詩には「昨日のあれ」がわからない。  ちなみにソンミンもあと少ししたら出勤してくる頃だが、ともかく今はいなかった。 「すみません、昨日注文されたものはどちらでしょう?」  詩はメニューを開いて彼に渡す。  男はメニューを裏返したりまた表にしたりして検分したが、困り顔でそれを突き返してきた。 「わかりませんか。コーヒーですか?」 「多分そうだ。さっぱりしていて少しの苦みと酸味があって……」  彼は顎をなでながら、言葉をひねり出そうとしている。 「なんだろう、モカか、グァテマラか……」  詩はコーヒーサーバーに余っていたそれをエスプレッソカップに注いで差し出した。 「これじゃない」  匂いを嗅いだだけで彼は即答する。普通なら飲んでみるところだが、コーヒーの香りを嗅ぎ分けられるほどの通なのか、それとも人より鼻が利くんだろうか。  詩はしばらく頭を悩ませてから、はっとひらめいた。
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