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「もしかしてこれですか?」
昨日詰め直したブルーマウンテンの瓶を開けた。
「少し待っていてください!」
豆を挽いて淹れ始めると、カウンターに座った和装男が「これだ」と頷いた。
「本当ですか?」
「ああ」
白い歯を見せて笑う彼を見て、詩もホッとする。
なんだか変な客だと思ったけれど、コーヒー好きに悪い人はいない。
それからソンミンが出勤してきて他の客も来て。店は束の間のにぎわいを見せ始める。
ガレットを焼くのに忙しくなった詩だったが、目の端には幸せそうにブルーマウンテンをすする男の姿が映っていた。
(よかったな、味のわかる人に飲んでもらえて……)
ところが……。
「ミンくん、そこに座っていたお客さんは?」
あの和装男子が忽然と消えていたのだ。
「……え?」
空いた皿を下げていたソンミンが、店内を見回し眉をひそめる。
「僕はお会計してないですよ?」
コンロの前にいる詩だってそうだ。
ちなみにこの狭い店に客用のトイレはない。
「むむむ、無銭飲食!?」
「声が大きいって。他のお客さんもいるのに……」
「だって店長!」
ソンミンは汚れた皿をカウンターに放りだし、表へ飛び出す。
ガシャンという大きな音が店に響いた。
*
「よりにもよって、店で一番高いコーヒーを飲み逃げするなんて……」
午後七時。閉店作業をしながら、ソンミンはまだそのことを言っている。
彼があのあと店の周囲を探し回ったが、結局和装男子は見つかっていなかった。
「一番高いっていってもたかだか数百円だよ」
レジの売上金額を確認しながら詩が応じる。
今日は久しぶりに目標金額に届いたかと思ったのに、その数百円のせいで一歩足らなかった。このことはソンミンには言わないでおく。
「1円だろうと泥棒は泥棒です!」
ソンミンの怒りは収まらないようだ。
「お金、払い忘れただけかもしれないよ? 思い出したらきっと払いに来てくれる」
「そんなこと本っ気で思ってるんですか!? てんちょー、人がよすぎますよ~……」
それはよく言われることで、詩としては否定のしようがない。
「そうかもしれないね。でもさ……」
売上金を金庫に入れ、ふうっと息をつく。
「正直に生きてればちゃんと神さまが見てくれてるよ。そのうちいいことある」
そして金庫を手に奥へ行こうとした時だった。
近所の飲み屋から流れてきた客が、シャッターを下ろそうとしていたソンミンに話しかける。
「コーヒー飲みたくなっちまったな。兄ちゃん、コーヒーひとつ!」
「すみません、うちは7時までなんです」
怒りモードから戻れずにいたソンミンの口調には棘があった。
「まだ7時3分じゃないか」
「7時過ぎてるじゃないですか」
表から聞こえてくる二人の声色に、詩は嫌な予感を覚えた。
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