第1章 祓戸の神

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「もしかしてこれですか?」  昨日詰め直したブルーマウンテンの瓶を開けた。 「少し待っていてください!」  豆を()いて()れ始めると、カウンターに座った和装男が「これだ」と頷いた。 「本当ですか?」 「ああ」  白い歯を見せて笑う彼を見て、詩もホッとする。  なんだか変な客だと思ったけれど、コーヒー好きに悪い人はいない。  それからソンミンが出勤してきて他の客も来て。店は束の間のにぎわいを見せ始める。  ガレットを焼くのに忙しくなった詩だったが、目の端には幸せそうにブルーマウンテンをすする男の姿が映っていた。 (よかったな、味のわかる人に飲んでもらえて……)  ところが……。 「ミンくん、そこに座っていたお客さんは?」  あの和装男子が忽然(こつぜん)と消えていたのだ。 「……え?」  空いた皿を下げていたソンミンが、店内を見回し眉をひそめる。 「僕はお会計してないですよ?」  コンロの前にいる詩だってそうだ。  ちなみにこの狭い店に客用のトイレはない。 「むむむ、無銭飲食!?」 「声が大きいって。他のお客さんもいるのに……」 「だって店長!」  ソンミンは汚れた皿をカウンターに放りだし、表へ飛び出す。  ガシャンという大きな音が店に響いた。 * 「よりにもよって、店で一番高いコーヒーを飲み逃げするなんて……」  午後七時。閉店作業をしながら、ソンミンはまだそのことを言っている。  彼があのあと店の周囲を探し回ったが、結局和装男子は見つかっていなかった。 「一番高いっていってもたかだか数百円だよ」  レジの売上金額を確認しながら詩が応じる。  今日は久しぶりに目標金額に届いたかと思ったのに、その数百円のせいで一歩足らなかった。このことはソンミンには言わないでおく。 「1円だろうと泥棒は泥棒です!」  ソンミンの怒りは収まらないようだ。 「お金、払い忘れただけかもしれないよ? 思い出したらきっと払いに来てくれる」 「そんなこと本っ気で思ってるんですか!? てんちょー、人がよすぎますよ~……」  それはよく言われることで、詩としては否定のしようがない。 「そうかもしれないね。でもさ……」  売上金を金庫に入れ、ふうっと息をつく。 「正直に生きてればちゃんと神さまが見てくれてるよ。そのうちいいことある」  そして金庫を手に奥へ行こうとした時だった。 近所の飲み屋から流れてきた客が、シャッターを下ろそうとしていたソンミンに話しかける。 「コーヒー飲みたくなっちまったな。兄ちゃん、コーヒーひとつ!」 「すみません、うちは7時までなんです」  怒りモードから戻れずにいたソンミンの口調には(とげ)があった。 「まだ7時3分じゃないか」 「7時過ぎてるじゃないですか」  表から聞こえてくる二人の声色に、詩は嫌な予感を覚えた。
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