第1章 祓戸の神

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「うわっ!」  硬い金具が顔に当たった。 「待って、このバッグ」  とっさにバッグをつかみ返す。  女物だった。 「無銭飲食じゃなくて置き引き!?」  飲み屋で酔った女のバッグを取って逃げようとしたんだ。だから店の人に声をかけられ逃走した。  全力で走って逃げたのはそのせいだ。  男も必死だった。雄叫びをあげながら詩を突き飛ばす。  詩の手からバッグが離れた。  バッグが石畳の上を転がり、それを男が拾い上げようとした時。 「そこまでだ!」  誰かが男の手を踏みつけた。 (え……!?)  男がぎゃっと悲鳴をあげる。  彼の手を踏んでいるのは裸足に藁草履(わらぞうり)……。  あの和装男子だった。  突き飛ばされ尻餅をついていた詩は、唖然(あぜん)としてその姿を見上げる。  立ち姿が絵になっていた。  境内の木々をサワサワ鳴らした夜風が、彼の長い髪をなびかせる。 「何があったか知らないが、泥棒はいけねえな」  腹の底に響く声。  置き引き男は気持ちをくじかれてしまったのか、転がるバッグはそのままに、フラフラとどこかへ消えてしまった。 「……ああっ、お会計」  遅ればせながら言うものの、詩にももう追いかける気力がない。  和装男子が詩を助け起こした。 「すみません……あなたはもしかして、あの人を追いかけて?」  彼は口の端を持ち上げ、肩をすくめてみせる。答えはYESなんだろう。 「そうですか。バッグ、取り返せてよかったです。ありがとうございました」  女物のバッグを拾って礼を言うと、彼は首を傾げてみせた。 「礼を言うなら昼間のコーヒー代」 「……?」 「今のでチャラにしてくれよ」 「……!?」  なんと答えていいのかわからない。  泥棒はいけないなんていいながら、この人はコーヒー代を払うつもりがないのか。 「なあ、詩」  答えられずにいると、なぜか親しげに名前を呼ばれた。  男の右手が伸びてきて、詩の顎を持ち上げる。  赤みがかった瞳と目が合った。 「誰なんですか? あなたは……」  やっぱりこの人には既視感がある。 「俺は……」  男の視線が、網膜を通して詩の目の中まで入り込んできた気がした。 「俺は祓戸(はらえど)の神。詩、お前が毎朝毎晩手を合わせている相手だよ」 (ああ、それで初めて会った気がしないんだ……)  普通なら信じられないような話なのに、詩はすんなりそれを受け入れていた。 「詩、言いにくいんだが、お前に言わなきゃいけないことがある」
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