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姉ちゃんはお茶を飲み干すと来た時と同じように颯爽と帰って行った。いや、働きに出て行った。
出た瞬間、姉の顔から働く女性の顔になったのをカッコいいとさえ感じながら玄関を閉める。
部屋にほんのり残されたフローラルの香りは姉ちゃんの使う柔軟剤か香水か何かなのだろう。
それをなかったことにでもするように、消臭&芳香スプレーをシュッシュッと吹いて、我が家の匂いに戻すと、途端に安堵のため息が出た。
「はあー」
直子のことは好き。だけど、どうしたって比べてしまう。比較しても無意味だと分かっているけど、幼い頃から両親に比較されてきた癖が身についているのか、なかなかにそれを止めることなど出来ないでいた。
そうして比較して、落ち込む事が分かっているというのに。
年少の香苗と、年長の美琴と、小学1年生の陽太を寝かし付け時計を見ると21時半を過ぎていた。
スマホに届いていたメッセージを確認すると、夫の健太から「帰る」と二文字だけの飾り気もない端的でかつ明確なメッセージが入っている。
結婚当初はそれに可愛いスタンプで「お疲れ様」と返信していたのに、今は「お」と入力するだけで「お疲れ様でした」と変換されてしまうから、私は可愛げなくそのまま送信するのだった。
健太とのメッセージの履歴は「帰る」と「お疲れ様でした」の応酬ばかり。
絵文字さえ一つもない。
それは夫婦関係そのものを表現しているようでもあった。
「いけない、もうすぐ帰って来るって。ごはん温めなきゃ」
健太が「帰る」と送った時間は15分前のもの。あと10分ほどで帰って来るだろう。「帰る」と送られてきたからには、帰って来た時には温かいごはんを準備していないといけない。
おかずをそれぞれレンジに入れて温め直し、お味噌汁の鍋に火を入れる。ケトルでお湯を沸かして緑茶を淹れ、テーブルは軽く拭き直して箸を配膳する。
レンジがピーと音を立てるのと、玄関の鍵が解錠したのは同時だった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
聞こえるか聞こえないかの声量で健太は言うと、そのまま洗面所に手を洗いに行く。その横顔をこっそり見ながら、とくに機嫌が悪そうではないことに安堵した。
元々、寡黙な健太だが、機嫌が悪いと顔つきも雰囲気も悪くなる。だから次第に私は健太の顔つきを確認するようになった。
「はい、どうぞ」
「いただきます」
「ビールいる?」
「いい」
「あっ、今日ね急に姉ちゃんが来たんだよ」
「そう」
「連絡もなしに来られると困っちゃうよね」
「ん」
「…………」
健太の反応が薄いのなんて今に始まった事ではない。
「そのお味噌汁ね、今日は昆布と鰹節からお出汁取ってみたんだ」
「そう」
「おひたしは? どう?」
「ん」
「…………」
感想なんて、……求めてないけど、でもなんだか胸の中がムズムズする。返す言葉にくらい心を込めて欲しい。せめて隠し味に入れるほんの少しの調味料くらいの真心が。
「そうだ、陽太ね、学校のテストで100点取ったんだよ!」
「ふうん」
「美琴はね、幼稚園のお弁当残さず食べたんだって……」
「そう」
「香苗は、……」
「うん」
聞いてる? 聞いてない?
「…………」
「…………」
健太の反応が薄いのは……、分かってる……。
でもでも、反応が薄いのなんて今に始まった事ではないと、理解していても、どうしたって反応を求めたくなるのはどうしたらいい?
――私は貴方と話したいよ? 貴方は?
私は健太にとって妻などではなく、同居人もしくは家政婦程度の認識ではないだろうかと疑問を抱くようになっていた。
――私たちの間に愛はありますか?
香苗を妊娠してから夫婦の営みもない。
私はそんな疑問を抱いたまま、貴方の妻として一生を捧げることが出来るだろうか。健太の隣で私はどんな顔をしていればいい? 妻の顔をするのはおこがましいって思う?
私の人間としての性能が良くないことは重々承知している。私がポンコツだからと諦めるべきだろうか。
分からない。
私はどうしたらいいか分からなかった。
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