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「どうぞ」
ソファに座る千春さんの前に紅茶を置くと小さく、ありがとう、と返ってくる。
静かに千春さんの横に腰を下ろすと、ギイときしむソファの音がやけに耳に響いた。
「いただきます」
添えていたスティックシュガーの端を切り取り、さらさらと音を立てて紅い液体の中へ沈んで行く音を聞き、それからティースプーンが空気を読まずキャラキャラと声を立てて笑うのを私は重苦しく感じながら静かに聞いていた。
音がやむ。
静かに紅茶を口にふくんだ千春さんの華奢な喉が小さく動く。
細い指がカップの把手にくるりと絡み、反対の手は底に添えたまま千春さんの腿の上に下りた。
「あのね」
「うん」
カップから顔を上げた千春さんが横を向き、私と目が合う。
「不倫してるかもしれなくて……」
「フリン? え? 不倫?」
千春さんはまるでアイスやプリンのようなおやつの話しでもするみたいにそれを言う。まさか、千春さんの口から「不倫」なんて言葉が出て来るなんて思いもしなかった。千春さんには似つかわしくない言葉の上位に「不倫」が入るだろう。
「待って、待って、不倫って誰の話し? ドラマ?」
ドラマの話しじゃないよね、そう思ったけど、私はそれを聞いていた。そしてそれに千春さんは首を横に振る。
「旦那」
「旦那さん?」
「うん。なんかね急に優しくなって、ご機嫌取りみたいに色々買ってきたりするの」
「…………」
私は相槌も打てず、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「それでね、あまりに気味悪くて『どうしたの?』って聞いてみたのね。誕生日でもないのにケーキ買って来たり、記念日でもないのにお花買って来たり、雑誌見てて『可愛いな』って言っただけのアクセサリーを買って来たりして……。
今までね、そんな事なかったの。何でもない日に何か買って来る人じゃなかったのよ」
「…………」
「それに、料理もやたら褒めてくる」
「えっ!?」
思わず声を上げた私に、千春さんが驚く。
「真樹さん?」
「あ、ごめんね。料理、その、……褒めてくれるの?」
「うん。『美味しいね』って。何食べても『美味しいね』って言うからね、私ついに意地悪してあの人の嫌いなものばっかり作ってみたのよ。そしたら」
「そしたら?」
何か他人事じゃない話しに身体が前のめりになる。
「そしたらね、我慢して食べながら、それでも『美味しいね』って言うのよ。おかしいでしょ?」
「うん、そうだね」
「だからね、私聞いたの。『何かやましいことがあるの?』って」
「え、聞いたの?」
「聞いちゃった。……聞かなきゃ良かったのかな?」
「待って、待って。その、旦那さん何て答えたの?」
「…………」
遠くへ視線をはせていた千春さんが眉を寄せ、ゆっくりとこちらを向き、そしてもう一度目が合う。
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