* 1話 敗戦国の皇女様 *

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* 1話 敗戦国の皇女様 *

 ずっと、夢に見ていたことがある。 みんなにとってはごく当たり前の事で、とてもささやかな事。だけど、私にはそれが眩しくて――とても羨ましかった。  私の夢。 それは、父と母、そして姉たちや兄、【家族】一緒に食卓を囲んだり、たわいもない話をしながらゆっくりと同じ時間を過ごすこと。たったそれだけの事なのに、私はそんな儚い願いすら叶えることすらできない。  きっと、私はこれから先ずっと【家族】というものに縁がないまま生きていくんだ……あの頃は、そんな事ばかり考えていた。 *** 「百合子(ゆりこ)様! ほら、いい加減起きる時間ですよ」  目覚まし時計が鳴り出すのと同時に、今日も朝からトクのうるさい声が私の寝室に響き渡った。私は目覚まし時計を止めて、再び布団に潜り込む。 「……やーだー」  私が小さくそう言うと、布団越しにトクの大きなため息が聞こえてきた。 トクは私こと、【陽本国皇帝(ひもとこくこうてい)】の【第三皇女 珊瑚樹宮(さんごじゅのみや) 百合子】付きの女官であり、主に私のお世話をしてくれる人。けれど、口うるささで言えば、二人いるお姉さまたち以上。私に対する言葉使いはいつだって丁寧だけど、彼女からはとても凄まじい圧を感じる。たとえ、私が布団の中にいてトクの姿が見えていないとしても、それはひしひしと感じ取っていた。  トクが布団を引っ張ろうとしたので、私はぎゅっとそれを掴む。ここまで来たら意地と力の比べ合い。しかし、私が渾身の力を込めているのに、徐々に布団が体から離れていくのを感じていた。 「ほら、女学校が休みだからって、いつまでも寝ていないでください。じきに家庭教師の先生がお見えになる時間ですよ、早く準備しないと……」 「いいわ、追い返してちょうだい」  私だって、せっかくのお休みに一日中寝ていたいわけじゃない。本を読んだり庭を歩いたり……勉強だって言われたらちゃんとやる。でも、自分でもどうしてかはわからないけれど、どうしても【あの人】にだけは会いたくないのだ。 「そのような事は出来ません! お兄様である皇太子殿下からのご紹介で来ていただいているのに……それに、そんなことをしたらお兄様に怒られるのは百合子様ですよ」 「……そんなの、怖くないもの」 「もう! 駄々をこねてばっかりいないで、いい加減になさってください」  布団をぎゅっと押さえていたのに、トクの馬鹿力によってあっという間に引きはがされてしまった。私が枕を抱きかかえて恨みがましい目でトクと見ても、どこ吹く風だ。誇らしげにフンッと鼻を鳴らして、仁王立ちをしている。 「さ、早く着替えましょう。そうだ、百合子様はいつも和装ですし、今日は気分を変えて洋装になさいますか?」  今度は、がっくりと肩を落とした私がため息をつく番。頬についた長い黒髪を指先で払い、観念しながら口を開く。 「いつも通り、和装でいいわ。洋装は好きじゃないの」 「かしこまりました。用意いたしますので、早くお支度なさいませ」  寝台の近くには、ぬるま湯の入った大きな洗面器が置いてある。これもトクが用意してくれたもの。私は長い黒髪を一つにまとめて、それに顔を沈めるようにじゃぶじゃぶと顔を洗っていく。トクは「あらあら」と言いながら水が飛び散った周囲を拭いてくれる。  世の中にいる【お母さん】と呼ばれる存在は、十六歳の娘に対してここまで世話を焼いてくれないらしい。トクがプリプリと怒りながらも私に対して優しいのは、彼女は私の従者であり、トクにとってこれが仕事だから。  そこに【お母さん】たちが持つ愛情があるのか、私には分からない。  身支度を整えて朝食を取っていると、玄関からチャイムの鳴る音が聞こえてきた。今日ここに来ると分かっているのは、一人しかいない。 「あら、今日はお早いですね、あの方は」 「すぐ食べるから、少し待っていただいて」 「わかりました」  トクはさっとお茶を淹れ、玄関に向かう。ちらりと壁にかけられている時計を確認する。【彼】の授業が始まるまで、また少し時間があった。私は重苦しいため息をはきながら、トクの淹れた渋い緑茶を飲む。 頭の中をよぎっていく【彼】は、このお茶よりもティーカップに注がれた紅茶が良く似合う。  トクが「早く召し上がってください!」と怒鳴り込んでくる前に食事を終えた私は、歯を磨いて、髪と着物の帯を少し整えて客間に向かう。すると、廊下にふんわりと花の香りが漂っていることに気づいた。 (……あの人は、今度は何を持ってきたのかしら)  客間のドアを開けると、うっすらと耳を赤くしたトクが何やら楽しげに話をしていて私が来たことに気づいていない。私が来たことに先に気づいたのは【彼】だった。穏やかな波のようにうねっている金色の髪を後頭部側に撫でつけたような髪型に、まるで春を思わせるような瑞々しい若葉のような色の瞳。その目の色よりも深い緑色の軍服に身を包んだ【彼】と目が合うたびに、私はどうしても緊張してしまう。それが彼にバレないように、私はお腹に力を込めた。 「おはようございます、皇女殿下」  彼の声も、まるで春風のようにさわやかだった。 「……ごきげんよう、カーター殿」  それに引き換え私ときたら、ぶっきらぼうな返事しかできない。
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