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肩を揺さぶられて目を覚ます。初老の男が心配そうに僕の様子を伺っている。
――ば、爆弾!
僕はぱっと腰を浮かすが、前の座席の下に置いたリュックが触られた形跡はなかった。バスは変わらず高速を走り、車内はうるさく賑やかだ。腕に巻いた時計を調べる。午前一時半。時限爆弾は二時にセットしてあるから、たぶんまだターゲットである橋は越えていない、と思う。
「日本茶を魔法瓶で持ってきたのですけど、いかがでしょうか?」男は新品の魔法瓶を掲げて尋ねる。「昔はお茶なんて飲まなかったんですけど、定年を迎えてから緑茶にハマってしまいましてね」
「えっ、ええ」と僕は頷き、窓の外を確認する。外は暗く、バスがどこを走っているのかよくわからない。しかし例え予定より早くバスが橋を越えていても、もうどうしようにもならない。僕は座り込む。そのついでに後部席にも目をやる。双子は頬をすり合わせるようにして眠っている。
男に紙コップに入った緑茶を渡されて、僕は一口飲む。
「サラミもあるんですが、そちらの方はいかがでしょうか?」
サラミ。聞いただけでも吐き気がして、好青年の表情が崩れそうになる。
「い、いえ、あまりお腹が空いていないので」
「ははあ。やはりサラミはバスの旅行には向いてませんよね」
男は残念そうに空になった紙コップを受け取り、膝に置いたバックに仕舞う。
「ところでですね、私はこの歳で小説を書き始めてしまいまして」男は恥ずかしそうに切り出す。「今あるアイディアが思い浮かんだのですが、ちょっと聞いてもらえますかね。若い人の意見を参考にしたいので」
僕は可能な限りの笑顔を見せて首を縦に振る。「どうぞ」
「ではお言葉に甘えて」初老の男はまたにこにこと微笑を浮かべる。「ある私と同い年ぐらいの男性は四十年以上働き、やっと定年を迎えます。これから仕事をせずに妻と一緒に老後を楽しめる、と男は浮かれながら家に帰ってきます」男は手を上げて、「と言ってもこれは私自身の話ではないですからね。私は生涯独身でしたから」とつけ加える。
「ええ」と僕は相槌を打つ。同時に窓から見える景色を確認し続ける。
「とにかく男は家に帰ってきます。しかしそこに妻の姿はありません。あったのは彼女からの置き手紙だけです。置き手紙には残った人生を楽しみたい――みたいなことが書かれているのですが、具体的なことは書かれていません。ですから主人公の男はなぜ妻が出ていったのかちょっと調べます」
高速の標識が見えた。次の街までの距離が表示されていたが、この角度からではよく読めなかった。もし、あの街までの距離数が三桁だとすると、まだ橋は越えていない。僕は手のひらに爪を食い込ませる。あともう少しだけ、この好青年のマスクを被っていなければ。男の方を向いたまま、僕は祈る。
――偉大なる主君……。
「人はみな仮面をつけて生きているものなのですね」
初老の男が突然言い、僕は我に返る。
「え、えっ? い、今なんて言いました?」
男は大きなため息を吐き出す。「妻は三十歳以上も年下の、若くて、まだ体力もあり、皺もないヤツに寝取られていたんですね。それを彼女は数年の間ずっと隠していた」
「ああ」と僕は内心胸を撫で下ろし、「それは――」と言葉に詰まる振りをする。
「ああ、いえ」男はにっこりする。「ですから私が考えた物語の中の話ですから。それでですね、主人公の男は生きる気力を失います。妻のためにずっと働いてきて、やっと静かに過ごせるかと思うと、彼女がこの数年不倫していたことがわかり、しかも相手は主人公の肉体ではどうしても敵わない三十代の男」
「それからどうなるんですか?」僕はストーリーのオチを知りたそうな顔で尋ねる。
「絶望した主人公は自殺することを考えます。もう生きる理由なんてありませんからね。しかし、自殺すればやはり妻は悲しみ、罪悪感を覚えることでしょう。それは避けたい。例え不倫した妻であっても、彼女のことを愛していますし、残された時間を楽しく過ごしたいという妻の考えもわからないわけではありません。主人公だって、もし自分に若い娘と浮気するチャンスがあったとしたら、そうしなかったと言い切れる自信はありませんからね」
僕は眉間に皺を寄せる。「つまり主人公は自殺したいけれど、自殺はできない」
「ええ」と初老の男は頷く。人が良さそうなスマイルで。「ですから主人公は自殺相談所に電話をかけます。どうすれば妻がさほど悲しまないようにこの世から去ることができるか、と。そして――」
バスは唐突に止まる。バス停ではなく、高速のど真ん中で。驚いて前を向く。フロント・ガラスからターゲットである橋が見える。しかしバスは橋の上ではなく、その前で停車している。
運転手は素早く立ち上がる。圧縮空気の音がして、バスのドアが開く。運転手が降りると、ドアはまた閉まる。
「ど、どうしたのでしょう?」僕はバスから逃げるように離れる運転手を目で追いながら隣に座る男に尋ねる。
まさかトイレであるはずはないだろう。高速道路は空いているが、道の真ん中で止めて降りるなんて無謀すぎる。
「ここが終点ですからね」と男は言う。
「えっ?」
横を向くと、男の顔から好感的な笑みは消え失せていた。のっぺらとした無感情な顔が僕を見返している。
「さあ、さっさと起爆させてください」初老の男は叫ぶ。
急にずっとお祭り騒ぎだったバスの中は静まり返る。自分の乱れた呼吸が耳に響くほどに。乗客の全員の視線を感じる。
――な、なにがどうなっているんだ?
時計を見る。一時五十八分。爆発まで後二分。
「いくら待っても橋を爆破することはできませんよ。バスはこれ以上は進みませんから」
橋を爆破と聞き、僕は凍りつく。
「――な、なんの話だっ!」そう答える僕の声は掠れていた。
「まだお気づきではない?」初老の男の無表情は、顔半分がぱっかりと裂けたような笑みに変わる。「このバスの乗客はみな自殺志願者なんですよ。ある意味あなたを含めて」
喉が締め付けられたように痛む。「な、な、なに言っているんだ……」
「あなたの祖国はこうやって、この国でテロを行うことで、国家のメンツを保つことができる。この国は自殺志願者だけをテロの犠牲者にすることで、無実の国民を守ることができる。そして、私たちは自殺ではなく、テロの犠牲者として死ぬことができる」
初老の男は咳払いして、さっきのようににっこりする。だがその笑顔が化けの皮だと知ってしまった以上、薄気味悪いとしか思えない。
「まさに誰もが勝つシステムではないでしょうか。世は情けというのはこういうことですね。まあ強いて言うなら、あなたは無意味に死にますが」
「う、嘘だっ!」静寂なバスの中、僕は思わず怒鳴っていた。
「こいつさぁ、あんな下手な口説き方がこの国で通用するって思ってたんだよね」
「馬鹿だよねー。だからクソ童貞の外人カスは大嫌いなんだ。キモいし、鳥肌立っちゃう」
寝ていたはずの双子が背後で言い、どっと笑いが溢れる。乗客全員が大声で笑っている。斜向かいの家族でさえ僕を指差し笑っている。
「嘘だ……」と僕は繰り返し、へなへなと座席に身体を投げ出す。「どうせ死にたいのなら――」僕は初老の男に向かって訊く。「どうしてわざわざこうやって僕を苦しめる必要が――」
「えっ? 疑問に思うのそこですかね?」男は人をいたぶるのが楽しくて楽しくて仕方がないというように口角を釣り上げる。「おまえが嫌いだからだよ。この国にこのようなテロ対策システムがなかったら、おまえのテロの犠牲になったのは私の妻かもしれない。どうしてこの国にわざわざやってきて人を殺そうとするんだい? ん? まあ、いい。君はここで無意味に死ぬ。どうせ死にたかった私たちを殺してね」
「い、い、嫌だっ!」僕は絶叫する。「死にたくないっ!」
立ち上がろうとした。しかし後部座席から双子の四本の腕が伸びてきて僕を座席に押さえつけた。
「旅は道連れ」と右側の片割れが笑い、「世は情け」と左側が笑った。
喉が破裂するような叫び声を僕は上げた。刹那、足元に置いたリュックから閃光が溢れ出すような気がした。
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